卵焼き上手にできてわつはつはつ一人笑ひのこころ謎めく

小島ゆかり『泥と青葉』(2014)

 

何か哀しい一首としてこの歌を読んだ。一人の食卓かもしれない。自分のために焼いた卵焼きがいつもよりきれいにできた。それだけのことに声をあげて一人で笑っている。「わつはつはつ」という笑い方は本来は大勢のひとのなかでするようなイメージである。作者は本当は泣きたいのではないのだろうか。作者の気持ちはいっぱいいっぱいで、何かに耐えているように思える。

 

へうたんをもちてあゆめばあをぞらのくらくらとしてわらひこみあぐ

 

こんな笑いの歌もあった。連作から読むと作者は、誰かにもらった瓢箪の実を持って青空の下を歩いている。ただそれだけで身体の中から笑いがこみ上げてくる。「くらくら」や全体の平仮名表記がふわふわとした揺らぎのイメージをつれてくる。前川佐美雄の『植物祭』の「からからと深夜にわれは笑ひたりたしかにこれはまだ生きてゐる」といったような歌の、日常の中の狂気を少し感じた。

 

羊羹にぬつと刃を入れとりあへずまだ大丈夫なにかわからねど

 

このような歌も印象的だった。震災のあとの心境と結びつけて読むこともできるが、漠然とした不安のなかに生きる現代の私たちの気持としても受け取れる。黒い羊羹に入っていく刃物の感覚が恐い。「ぬっと」が効いている。何の保証もないけれど、とりあえず大丈夫と自分に言い聞かせなければ前に進めない。正体不明のものに常におびやかされているような恐れが一首の中に漂っている。

 

人生をすすめばすすむほど経験を積んでひとは強くなっていくだろう。しかし強くなるほどそれに見合った荷物がどんどん背中にのせられていく。また見えていなかったものがどんどんくっきりと問題として周りに見えてくる。小島の歌はその重さのなかを歩いている。泥田のなかを一歩一歩進むような足取りで。