萱ざうの小さき萌を見てをれば胸のあたりがうれしくなりぬ

斎藤茂吉『赤光』(1913年)

*萱に「くわん」、萌に「もえ」のルビ。

 

春といえば、まずこの歌を思う。そして同時に「石(いは)ばしる垂水(たるみ)の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも」(『万葉集』巻八・一四一八)を想起して、冬の寒さの去った後のあかるい、あたたかさ、生命の充実を言葉の上で実感する。『万葉集』に志貴皇子の作と伝える一首については、次回にゆずる。まず茂吉の歌を読もう。

萱草は、茂吉の好んで歌う植物である。『赤光』にも、

 

萱草をかなしと見つる眼にいまは雨にぬれて行く兵隊が見ゆ

くわん草は丈ややのびて濕りある土に戰げりこのいのちはや

 

がある。萱草には、どうやら二種類ある。野萱草と藪萱草、藪萱草は橙赤色のユリに似た小さな八重咲きの花を着け、野萱草は古名「わすれぐさ」、黄赤色の小さなユリのような一日だけの花を着ける。

萱草を愛した茂吉だが、ここに揚げた二首のうち、一首目はおそらく花、つまり一日だけ咲く花を対象にしているだろう。二首目は、伸びた茎であろうか。そして今日掲げた歌は芽である。

みずみずしい若緑の萌芽、それを見ているだけで、この胸のあたりがあたたかく弾むようにうれしさに浸される。まさに春という季節の生命の躍動を感じさせる。

思い屈することは誰にもあるであろう。そんな時、この生命讃歌のような茂吉の一首を読むと髣髴として胸のあたりにあたたかな生命の奔出を感ずるではないか。最初に揚げた『万葉集』の歌を、この歌から連想するのは、やはり「さわらびの萌え」に春の生命感を覚えるからであろうか。私のこの反射的連想には、かなり強固なものがある。