前田 康子


空高く手を 人体はみづからの腋下に口をつけえぬかたち

七戸雅人「本郷短歌」第三号(2014)

 

続々と学生短歌会の雑誌が発行されている。「本郷短歌」は東京大学の短歌会で、文学部の学生を中心に、法学部や医学部、理科の学生も歌をよせている。

七戸雅人の歌は「花になりたかった人の手順」二十首より引いた。この一首には高らかに表現しようとしているところと、人体の一つの限界のようなものが提示されているところがある。万歳と両手をあげているような人間が思い浮かぶ。しかし人間は、鳥や猫などがするように自分で自分の腋下に口をつけることができない。この発想はどこから来るのだろうか。何か原典があるのかもしれないが不思議な体感性がある。「噴水の凪ぎきりしのち公園はなだらかに腹部を広げをり」も同じように体感性のある歌で「腹部」という捉え方に注目した。(なお作品は旧仮名遣いだが、タイトルは新仮名遣いとなっている。)

 

風鈴の閾値おぼえて秋風はめぐらすように静寂を編む

 

千葉崇弘「徐行」十二首より。「閾値」というのは「一般に反応その他の現象を起こさせるために加えなければならない最小のエネルギーの値」と言う意味らしい。その意味をふまえるとこの一首がよくわかる。風鈴が音をならすことのできる一番弱い風、それをおぼえた秋風がいまは静かに凪いでいる。「閾値」という理系的な言葉がうまくいかされていて結句まで粘り強く詠まれている。硬質で静謐な一首。

 

たましいを少し削ってなめてみるお金の味に少し似てきた

 

鳥居萌「猫の街灯」十二首より。全体にドライな感覚で日常が詠まれている。試しに味見してみたたましいがお金の味に似ていたというのは、殺伐とした現代社会を詠もうとしているともとれるし、血に鉄の味がするといったようなことも連想する。「似てきた」とあるから以前との自身の変化を表しているとも感じた。

 

自由帳の自由が僕は怖かった 手で塗る糊がにおうお部屋で

 

服部恵典「ガムシロ奇譚」十二首より。タイトルもおもしろく、かろやかな相聞歌のなかにこのような一首もある。なんでも自由に描いていい真っ白な自由帳。その「自由」という無防備さが怖かったのか、「自由」という言葉が怖かったのか。下句を加えることにより切実さが伝わってくる。

 

風みえて欅散りをり木版のごとくかするる西日のうちを

 

小原奈実「時を汲む」七首より。文語文体のなかにじっくりと景を詠んでいる。特にこの一首は「木版のごとくかするる」という比喩がいい。秋の日暮れの光の感じを表しているが、日がかすれるという表し方も面白いし、そこに「木版」というものが足されることにより鮮やかさと木のぬくもりのようなものが加わっている。