いまよりはなるにまかせて行末の春をかぞへよ人の心に

里村昌琢(司馬遼太郎『播磨灘物語』)

 

今年のNHKの日曜日の午後八時、いわゆる大河ドラマは黒田官兵衛が主人公である。それほど熱狂的な大河ドラマのファンではないのだが、病気をしてからだろうか、けっこう熱心に見ている自分に気づいて驚いている。日曜日はわりあい家にいる子どもたちに色々聞かれながら見るのが楽しいのである。一昨年の平清盛も、去年の幕末の会津も興味深く見た。

しかし、今年の官兵衛については、ほとんど知識がない。目薬屋あがりの家系の武将ながら名軍師であり、秀吉の天下盗りに大きな役割を果たしたというくらいしか知らなかった。これでは子どもたちの疑問に答えることができない。そこで何冊かの官兵衛本を読んだ。

そのうちの一つが司馬遼太郎『播磨灘物語』(講談社文庫)である。文庫本で四冊、もともとは1973年5月~1975年2月の新聞連載小説である。3年に近い連載、そこそこに大部だ。官兵衛クラスの武将にこの四冊は長い。司馬遼太郎好みの武将ということか。

黒田官兵衛は、播磨御着(ごちゃく)の小寺氏につかえる家老にすぎない。その一家老が、織田信長の天下盗りに秀吉を介して加担してゆく。荒木村重の謀反の際、有岡城に幽閉される(ちょうどテレビはこのあたり)といった過酷なドラマもあるが、秀吉の中国地方制圧に大きな力をふるい、本能寺に信長が討たれると秀吉の大返しを支える。そして秀吉に天下をとらせ、さらに家康の開府へ。とはいえ、あくまでも軍師であってヒーローではない。

司馬遼太郎が官兵衛を好むのは、一つには彼が戦国武将にもかかわらず人を殺すことが好きでないという点においてだろう。それは権力欲にもかかわる。どこか欲がない。このあたり戦争体験者としての司馬遼太郎の思いが反映しているのかもしれない。さらに商品経済や貨幣重視の感覚が、他の戦国武将の一歩先に行っているように思える。それは奉教人=キリスト教を奉じたことにもかかわる。室町末期から新しい時代を切り開いていった一人である。

そして晩年、福岡に1604(慶長9)年、58歳、「このおかしなほど私心の薄かった男」官兵衛、この時代は如水と号していたのだが、三月二十日の自分の死を予見して、事実そのとおり「溶けるように死んだ」と司馬の小説は記す。そして、その後に、この里村昌琢(しょうたく)の一首を紹介している。

「如水が晩年親しんだ連歌師の昌琢が、以後、永劫に春を数えられる人になられた、として通夜の席で詠んだ」のが、この悼歌であった。もう策士として調略ばかりを考えなくてよい、これからはただ人の心のままに春の訪れを数えて待っていればよいのだ、おだやかにあれということだろう。ただ、もう世の行く末は傍観しているしかないのだよ、と諭しているようにも思える。「人の心に」も、策謀を考えるのではなくてという含意があるようにも。それほどに如水の晩年も隠居の態でありながら、心の内に策謀をめぐらせていたのかもしれない。

関ヶ原の決戦が、たった一日で決着がつかなければ、せめて一月続けば、ひょっとしたら家康ではなく、黒田如水の天下がありえたことを司馬は小説中に記している。一日で決着をみたのは、如水の息子である黒田長政の調略に拠るのだが、死後は「なるにまかせて」「人の心に」春を楽しめと、親しき者たちは言いたかったのであろう。ちょっと稀な武人であったようだ。