十六歳の君の写真が見下ろすは柩に眠る十八歳の君

植田美紀子『ミセスわたくし』(2014)

 

とても哀しい歌だ。同じ年頃の子を持つ親としていろいろなことを考えさせられる。亡くなった「君」は三年間ひきこもっていた。最後に笑顔で写真を撮ったのが十六歳だったのだろう。その写真が遺影となってしまった。遺影が見下ろしているのが十八歳の「君」だ。その三年間の間に何がありどんな気持ちで「君」は生きていたのだろうか。どんなに苦しんだのだろうか。「夏の日を相談に来しその母の乱れなき声死を伝えきぬ」という歌も一連にある。相談されていたのは作者で、ひきもり相談のボランティアをしているという。

 

影のごと暮らす息子は悲しいぞ その影ときおり茶碗を洗う

耳だけで家族の様子を匂うらし 息子はときおり羊水に棲む

この家には誰もいません息子などましていないと鍵かけて出る

子について語ればいつもお互いを責める気配に夫は立ち去る

 

作者の息子もまたひきこもりの状態であった。一首目、口数も減り表情もなく「影」のように息をひそめて暮らす息子。その苦しみを一番わかろうとしているのは母親である作者だ。ときおり茶碗を洗う姿に少しほっとしているのだろうか。二首目では、部屋から出ずに家族の様子を窺っている息子の様子がある。上句は、耳だけで家族の様子を嗅ぎ取ろうとしている表現ととった。かつて自分のお腹のなかで、耳だけで外界の音を聴いていたようなところへ表現がとんでいき、印象的な一首だ。三首目、四首目もほんとうによくわかる歌で、きっと私もその立場であったら同じように思うことだろう。

他人事であればまだしも、自分の家のこととしてひきこもりを詠むのはとても辛いし勇気のいることだろう。どれも感情に流されず冷静に詠まれていて心に残る。

 

人生はごちゃごちゃなれどごちゃごちゃに負けてはならぬと咲く曼珠沙華

 

なるほどと思う。人生の苦難などと言わず「ごちゃごちゃ」と表しているところがいい。曼珠沙華の複雑な花の形も連想される。単純な歌であるがこの作者の歌であるからこそ強く心に響いてくる。