君がためつくす心は水の泡消えにし後ぞすみ渡るべき

岡田以蔵(1865年)

 

今日は、少し変わった人物の歌を紹介したい。

幕末の京都で多くの暗殺にかかわり、「人斬り以蔵」と呼ばれた男がいた。岡田以蔵――土佐勤皇党に属して、武市半平太の命に従いあまたの殺戮にかかわった、坂本龍馬にも近い実在人物である。龍馬をえがいたドラマには欠かせず、最近ではアニメの世界でもイケメンの剣鬼キャラとして登場するらしい。

その岡田以蔵、実際の風姿、言動については、それほど明らかになっているわけではない。フィクションの世界に暗躍するキャラクターと考えた方がよさそうだが、いくらかの史料は残されている。松岡司『正伝 岡田以蔵』(戎光祥出版)は、できるだけ事実を明かそうとする。この一首も、実際に岡田以蔵のものだと言う。

しかし松岡は、武市半平太と交流のあった上士の日記に見いだされる、この以蔵の辞世だが、本人のものかどうか疑いがあることを紹介する。以蔵は、剣には優れた才を示すが知性は劣っていたという証言が根強くある。以蔵と同じように斬首された同志にも辞世があり、「君がためつくす」までは同じだという。岡田が真似たか。ただ、これは幕末尊王派の決まり文句のようなものだから、いかに知恵劣る以蔵といえど不可能な表現ではあるまい。

写真版で岡田家に伝わるこの辞世も検討される。「父宣之これを書す」とあるこの辞世、「つくす誠」に「心」が併記され、「後ぞ」は「跡は」になっている。これをどう判断するか。

「以蔵の辞世は、(同志の)助けを得ながらも自らが詠んだものと思いたい。ただし、以蔵には紙筆が与えられず、暗い牢獄の内でうめくしかなかった。その詞が獄吏によって、わずかに遺族へ伝えられたということではなかったか」と松岡は言う。私もそう思いたい。

知性劣ると評される以蔵だが、志士として、武士としての最後を意識していただろう。志士たるもの辞世は残さねばならぬ。いっそう以蔵の思いがせつなく感じられる。

そうすると、この辞世、水の泡と消えてしまった後に「すみ渡る」のは何だろうか。勿論、一義的には新しく生まれる世だと思えるが、自分の存在が消えることで澄んだ世が出現するというようにも読める。

以蔵は、激しい拷問を受けた。そうしたなかで自虐的にもなるだろう。この定型化した辞世に以蔵の思いが晴れたとは全く思えない。しかし、誰よりも武士らしき死を意識した以蔵の最後のふるまいとして、私はこの辞世を諾いたい。殺人を肯定するつもりは毛頭ないが、自分がかかわった行為を「水の泡」と断言して、その後の世を澄み渡れと希求する心を私は醜いとは思わない。