やがて来む終の日思ひ限りなき生命を思ひほゝ笑みて居ぬ

菅野すが『死出の道艸』(1911年)

 

1910(明治43)年5月、日本各地で多数の社会主義者、無政府主義者が明治天皇暗殺を計画したとの容疑で一斉に検挙された。現在では、首謀者とされる幸徳秋水以下、権力側のフレームアップであったことが明らかにされている。ただ宮下太吉、新村忠雄、古河力作、菅野すがの4名にかんしては、いわゆる大逆(天皇暗殺)の企図があったとされる。

その中で最も過激にテロリズムの心情を持っていたのは菅野すがであったろう。これは秋山清が「テロリストの文学」(『ニヒルとテロル』(平凡社ライブラリー)に説くところだが、たぶんそうだろう。とはいえ実行したわけではない。それは数名の頭の中にだけある夢のようなものであった。

明治政府は、長野県明科の宮下太吉の爆裂弾製造所持の事件をきっかけに、26名を大逆罪で起訴、非公開一審のみの暗黒裁判で24名に死刑の判決(うち12名は即日特赦により無期に減刑。姑息な温情は針小棒大のフレームアップを証してもいる)、幸徳秋水以下12名が死刑に処された。以後、社会主義や労働運動は弾圧される。関係者の名誉が回復されたのは、天皇制国家の敗戦後のことであり、その回復作業は現在もまだ続いている。

秋山清が、テロリストという菅野すがには、死刑の宣告を受けた1911(明治44)年1月18日から処刑される前日24日(この日には、菅野以外11名の死刑が執行された)まで、「東京監獄女監」(市ヶ谷刑務所。女性を収監する独房が5つのみ)において記された日記がある。

本来、処分焼却されていて不思議のない文書であるが、「敗戦の衝撃のうんだ社会的間隙から脱出してきた」「大逆事件被告の獄中手記の数々」とともに、この菅野すがの日記も世に出たのである。

『死出の道艸』と称する原稿は青の和罫紙に毛筆で墨書した菅野自筆、表紙、序、本文41枚、さらに白紙の18枚が綴じ合わされた日記であった。処刑が延びれば、その白紙のページが更に減ったわけで、残りの白紙は菅野の死を意味する。「明治文学全集」(筑摩書房)に収録されたこの『死出の道艸』は、最初に「死刑の宣告を受けし今日より絞首台に上るまでの己れを飾らず偽らず自ら欺かず極めて率直に記し置かんとするものこれ」とあり、「明治四十四年一月十八日」の日付と「須賀子」の自署がある。

日記については、ぜひお読みになっていただきたい。死を前にして、これほど率直に心の内をさらしながら、堂々と検察への批判を述べ、また周囲への感謝や慰労を忘れない。明治が生んだ名文の一つであろう。本来、死後は同志である堺利彦のもとへ渡るはずであったのだが、裁判への批判を堂々と主張した手記を外に出すことはありえなかった。それだけに、この手記が残されたことに驚くとともに、死刑囚の発言として貴重なものである。

この日記の中に菅野すがは、短歌を書き記している。そして後に自らその多くを「抹消」している。死が旦夕に迫る緊迫と「明星」風の作歌に違和感があったのだろう。しかし、短歌は読みとれた。

1月18日は死刑の宣告を受けた日だが、次の三首がある。

 

獅子の群飢へし爪とぎ牙ならしある前に見ぬ廿五の犠牲(にゑ)

終に来ぬ運命(さだめ)の神の黒き征矢(そや)わが額(ぬか)に立つ日は終に来ぬ

尽きぬ今我が細指に手繰り来し運命の糸の長き短き

 

一首目は裁判がはじまる前、二、三首は死刑宣告されて市ヶ谷へ帰る「監車」から夕日を受けた東京の街を眺めたという記述の後に記されている。

今日の一首は、1月20日、雪が積もり、生涯の雪の記憶を綴った日の記述の最後に「前の日記から二三の短歌を書き抜いて置かう」とあって記された23首の内の一首である。

 

限りなき時と空とのたゞ中に小さきものの何に争う

いと小さき国に生れて小さき身を小さき望みに捧げける哉

十万の血潮の精を一寸の地図に流して誇れる国よ

燃えがらの灰の下より細々と煙ののぼる浅ましき恋

野に落ちし種子の行方を問ひますな東風(こち)吹く春の日を待ちたまへ

二百日わが鉄窓に来ては去ぬ光りと闇を呪ふても見し

 

これらは「前の日記」とあるから、死刑を宣告される以前のものだろうが、冷静で自負を失わないたしかな革命者の意志がある。一方で、これは日記の文面にも表れているが、感傷せずにはいない繊細な若き女性の心情も覗く。短歌そのものは、明治のロマン主義明星派の影響を受けていることは、よく分かる。この時代のいわゆる進歩的な女性にとって、これは当然とも言えよう。そしてどの歌も、死を嘆いたり、事の失敗に泣き言をいうようなものではなかった。掲出の一首も、そうした覚悟に支えられている。

死刑が執行される日を思い、そして永遠の命を思ってほほ笑む――この微笑をどう受け取ればいいか。菅野すがは25日に処刑された。(引用歌の仮名遣いは「明治文学全集」に従っている。漢字は新字体に直した。)