ひとしきりもりあがりくる雷雲のこのしづけさを肯はむとす

明石海人『白描』(1939年)

*肯に「うべな」のルビ。

 ハンセン病の歌人として明石海人の名はよく知られている。しかし、その作品を読むには、古書を手に入れるしかなかった。それが村井紀の編集・解説によって岩波文庫に『明石海人歌集』が収録された。

戦前の『新万葉集』に入選、高い評価を受けて、1939(昭和14)年、死の直前に刊行された『白描』(改造社)は、村井の解説には〝25万部(一説に2万5千部)〟のベストセラーであったという。そのハンセン病という境遇と『新万葉集』の評価が評判になったにちがいないが、その短歌作品の秀逸はまぎれない。昭和十年代の代表的な歌人と言っていいだろう。

この時期、ハンセン病は、癩病と呼ばれ、末梢神経と皮膚が冒される伝染性の不治の病と考えられていた。そのために国は強制的に隔離する政策を採った。これが大きな差別につながる。つい先日も、「栗生楽泉園(くりうらくせんえん)」(群馬県草津町)のハンセン病患者を懲罰目的で監禁した施設の存在が発掘で明らかになったという新聞報道(「朝日新聞」4月28日夕刊)があったが、非人間的差別が行われていた証しである。

明石は、長島療養所愛生園にあって、療養生活の傍ら短歌に精進して、それが注目を浴びたことによって、ハンセン病者が置かれた当時の隔離(非人道的)政策の宣布にも利用されたということだろう。たしかに『白描』第一部「白描」は、ハンセン病者の現実が歌われる。

 

みめぐみは言はまくかしこ日の本の癩者に生(あ)れて我悔ゆるなし

 

「白描(はくびょう)」とは東洋画の毛筆による墨の線だけで描くこと、つまり毛筆によるスケッチの意味である。つまり、ハンセン病者の生活を描くということだろう。ハンセン病には、三大受難があるという。発病の宣告、失明、気管切開、その苦難に応じて明石は歌った。

しかし、歌集『白描』は、それだけではない。第二部としてその「現実の生活」のスケッチの「翳」(影)が歌われる。こちらは、主に「日本歌人」に発表したもので、当時モダニズム短歌の旗手であった前川佐美雄が高く評価した歌群である。「あらゆる仮装をかなぐり捨てて赤裸々な自我を思ひの儘に跳躍させたい」(作者の言葉)という短歌である。後に塚本邦雄が高く評価するのも、この「翳」の歌である。

 

シルレア紀の地層は杳(とほ)きそのかみを海の蠍(さそり)の我も棲みけむ

ふうてんくるだつそびやくらいの染色体わが眼の闇をむげに彩る

まのあたり山蚕(やまこ)の腹を透かしつつあるひは古き謀叛(むほん)をおもふ

新緑の夜をしらじらとしびれつつひとりこよなき血を滴らす

 

このような歌が第二部「翳」にある。幻想、呪詛、自虐……、たしかな短歌の文体のうえに感覚が解放されていることがわかる。二首目のひらがなに村井紀は「感傷の横流」との闘いを読みとるが、漢字にすれば瘋癲、痀瘻、脱疽、白癩となる。

今日のこの一首も、第二部「翳」に収められている。ただ特異なものではない。雷が動き出す前の緊張感を捉えて、優れた一首だ。第二部も、こうしたたしかな歌に支えられている。病状の悪化を考えれば、こうした静寂が孕む緊張が歌われることも奇跡のように思われる。明石海人の短歌は、もっと味わわれ、考えられる必要がある。

さらにこの一首も大西巨人の『春秋の花』に知ったことも付け加えておく。大西の昭和十年代の短歌への愛着にあらためて私は驚く。