車椅子同志のあいさつは体を横にふることで足る

 高瀬一誌『火ダルマ』(2002)

 

『火ダルマ』は高瀬一誌の遺歌集である。

歌を始めたころ高瀬さんに何回か葉書をいただいた。頑張って歌を続けるようにという励ましの言葉だった。青いブルーの万年筆で書かれ、読みやすいすっきりとした文字だった。ちゃんとお礼を言わないままにあっという間に高瀬さんは逝ってしまったような気がする。

 

字足らずや破調、口語表現の面白さが高瀬短歌の特徴である。歌集のなかには深刻な闘病の歌は数少ないがこの一首は病院での歌であろうか。車椅子に乗っていると体を動かしにくいし、頭を下げると前方が見えない。上半身を揺らすことでお互い挨拶をしているのだ。『火ダルマ』という歌集のタイトルは「全身火ダルマの人を想定して宮城前のくんれんである」という歌からとられている。消防訓練の本格的なものだろうか。上の句のような想定で放水するのだろうが、「火ダルマ」という言葉そのものにあらためて残酷さを感じる。

 

ガンと言えば人は黙りぬだまらせるために言いしにあらず

わが(からだ)なくなるときにこの眼鏡はどこに置かれるのだろう

物体のごとくこわれる体はステッキでしばらく保つ

 

高瀬は2001年に71歳で癌のため亡くなった。つぶやくように淡々と詠まれていて、字足らずの部分が寂しさを連れてくる。一首目、よくわかる内容である。下の句、作者が相手に病名を伝えることにより再び傷ついてしまっている哀しさがある。二首目も飄々と詠まれているが、常に「死」を意識し不安のなかにいたことが感じられる。三首目も体のどこが悪いか、細かく言っていないが「物体のごとくこわれる」に体の痛みや病の深刻さを感じる。

 

六倍ではない十倍にうすめてくれと酢一本につかわれにけり     『スミレ幼稚園』

一日が短くなったと語りかけるのにはやはり歯朶類がいいな        『火ダルマ』

裏木戸を閉じなければ「長男に乱あり」の家相からだにまだあり      『火ダルマ』

 

高瀬の短歌はリズムも素材も一風変わっている。現代詩的な雰囲気もどこかにある。一首目は結句がおもしろい。酢の瓶の指示通りに薄めているのだが、酢に人間がつかわれていると表現している。二首目は時間が早く過ぎてしまう寂しさを話しかけるのは羊歯がいいと思っている作者。ちょっとしたこだわりが面白い。三首目は何だろう。家相のひとつにそういうことがあるのだろうか。高瀬自身長男である。実父は参議院議員、文部大臣などを歴任したと年譜にある。そういった家に育った自身のことにも関係しているのだろうか。「家相」という素材そのものも面白い。

高瀬のほとんどの歌に字足らずがあるが、定型にぴったりと嵌めて作らないのは、定型からはみ出そうとする冒険であり、字足らずの部分を埋めようと追いかけながら歌を作っているようにも見えて来る。