かげろふの尾羽を透きし死の象 音さやさやと国くづれゆく

松田修『装飾古墳』(1967年)

*尾羽に「をはね」、象に「かたち」のルビ。

 

松田修(1927~2004年)の名を聞くことが少なくなった。京都大学の野間光辰に学び、近世文学を中心に芸能史、民俗学の知見を活かした評論的なエッセイには大きな刺激を受けたものだ。『日本近世文学の成立 異端の系譜』『闇のユートピア』『日本逃亡幻譚 補陀落世界への旅』など影響を受けた書物は沢山ある。日本文学という研究ジャンルの衰亡が、松田の名を忘れさせているのかもしれないが、大部の著作集もある松田の研究・評論は、ジャンルを横断するものであり、異端や幻想を扱い、決して色褪せたものではない。山口昌男や由良君美が文庫化されはじめた時代である、広末保とともに新たな編集のアンソロジーが望まれる。

その松田修に歌集があることは、以前から知っていた。しかし読んだことがない。見たこともない。古書目録やインターネットの古本情報にみつけても高価に過ぎた。それが偶然、去年神保町を散策中、詩歌集を扱う古書肆にそこそこに安くなった(それでも十分に高価だが)一冊を発見した。どこから出たものか。私は一も二もなく購入した。

題字は塚本邦雄――『装飾古墳』、松田には第二歌集にあたる。「後記」によれば第一歌集を送った塚本に「女々しきうた」と指摘されたとある。ページをひらけば明らかだが、松田の短歌は、塚本邦雄に影響されたものである。「迢空のよみくち」の受容を松田は自解するが、たしかに字空け表記や精神の暗部をうたおうとする姿勢は迢空のものだが、語彙や少年愛は塚本の影響のたまものであろう。

この一首は、「雲母族」との題のもとにうたわれている。キララ族、つまりキラキラであり、雲母、截金(きりがね)、太陽の光などが素材になっている。この歌ではカゲロウの翅である。透明な尾羽、その死骸の形象のイメージ。そこに国の亡滅のイメージを重ねる。しかも「音さやさやと」、つまりカゲロウの尾羽の風に吹かれるイメージも加わる。滅びのイメージの形象がこの一首であろう。松田の美意識が耀いている。

国文学者が片手間につくった短歌ではない。その力量とその世界――幻想派といえばいいだろうか、今ではその観念性が鼻に着かなくもないが、確かな歌の世界がある。

 

人間のいつの狂気の記憶とも 爪ひえびえと夜をひかれり

夕映えの妣(はは)に還らむ道絶えて 無目堅間(まなしかたま)は鈍(にぶ)き錫(すず)色

 

こうした歌が並び、とりわけ少年愛を歌いどぎつい印象があるものの、異端の世界への入口が、ここにある。松田には先にふれたようにもう一冊の歌集がある。『靠身文書』という。その読み方、また内容については次回。