昏れゆけば信濃は早き夕餉どき母のなき娘が膳運びくる

山村湖四郎『山村湖四郎のうた』(2008年)

*娘に「こ」のルビ。

 

信州松本に生まれ、英語教師として各地の学校に勤めた山村湖四郎(1895~1985)だが、生涯に一万首近い短歌を詠んだと言われている。しかし、歌集は『彩雲』(1956年)、『野茨』(1981年)、『柊の花』(1983年)の三冊のみ、知名度は低いかもしれない。若山牧水とのかかわりを持ちながら、本格的に短歌を発表しはじめるのは、「創作」に入会、若山喜志子に師事するようになってから、湖四郎40歳以降のことである。

1953年に「朝霧」を創刊、現在長男である泰彦氏が引き継いでいる。その泰彦氏によって、「朝霧」創刊55周年を期して『山村湖四郎のうた』(2008年)が編集された。今日の一首は、そこから選んだものである。

この歌は1947(昭和22)年、戦後まだ間もない頃の作。湖四郎は、1933(昭和8)年に最初の妻を急性腹症に失っている。「母のなき娘」は、その妻とのあいだに生れた長女、ここで歌われた娘は、十代半ばの可憐な少女であったはずだ。山国信濃の夕暮れ、それに合わせて夕食も早い。そう認識するのは湖四郎が、長く故郷を離れていたからでもある。日の昇降に合わせた常民の生活が、故郷の家を律しているのだ。そして夕餉の膳を運んでくるのは、早くに母を失った娘である。この哀感をこの一首はしみじみと伝える。

 

ふるさとの家に目覚めて死なしたる妻を憶へば山鳩の鳴く     『彩雪』

降り立ちて物云ふ吾娘の息白し畑にキャベツは球巻き初む

新緑の木曾は明るしうまやぢに簷深くして櫛を売る店       『野茨』

家毎に蚕(こ)を飼ふにほひむしむしと暑き部落の露地抜けて来し 『柊の花』

秋晴れの大和は風も明るくて飛鳥乙女ら髪吹かれゆく       1977年

水涸れて池の底ひに葦の芽のはつはつ青し春まだ浅き       1979年

せせらぎの音懐かしく病むわれは枕辺近く朝毎に聞く       1985年

 

このような歌がある。文句なく良い歌だ。最後の歌は、死の十日前7月4日の朝に、「一晩かかって出来たと言って母に口述筆記させた」と長男泰彦氏は述べる。山村家の敷地を横切って流れるこの「せせらぎ」は、「奈良井川に端を発し、塩尻市吉田の四か村(しかむら)せんげ付近から用水路になる」流れだと言う。

これだけの歌を読んだだけでも、その力が理解できるだろう。もっと知られて欲しい歌人である。その入口として『山村湖四郎のうた』(短歌新聞社)は、有用な一冊である。