再開発のビル建設は進められ古びつつある仮設住居(かせつ)を囲む

武山千鶴「1099日目」(2014)

 

「1099日目」は東日本大震災を体験した塔短歌会のメンバーが出している冊子で「99日目」「366日目」「733日目」に続く四冊目となる。

このなかで武山千鶴の一連は「支援物資」というタイトルの10首で、義理の母が住む仮設住居とその町について詠んでいる。もともと再開発計画地域だった町が復興とは関係なく都会化し、ビルやマンションが立ち始め、仮設住宅をぐるりと囲んだのだ。不思議な光景だと思う。住む所のなく古びていく仮設に耐えて暮らしている人もいれば、再開発された町のショッピングモールで買い物をする人もいる。町の中でそれが混在してしまっているのだ。淡々と表現されている歌の中にやりきれないものを感じる。

 

長き棒突き刺し不明者捜索さるる雪降る海岸一〇〇〇日目にも   (大沼智恵子)

 

「白衣観音」より。上句の描写がリアルである。「長き棒突き刺し」というところに痛々しさがある。「をちこちに電話すれども断らる瓦職人に被災者多し」といった歌もある。作者の持っている貸家が半壊し雨漏りがするが、電話をしても瓦職人たち自身が被災して修理にもきてもらえない。ついには瓦屋根をトタン屋根にしてしまったという。生活のあちこちでさまざまなひずみがあり、それらが人々に与える大きなストレスを思う。

 

慰霊碑に佇む時間 潮風にいつしか眼鏡は曇りてをりぬ  (斎藤雅也)

 

「手紙」より。静かな鎮魂の歌である。そして作者にはとても大切な時間である。特に下句がよく、そこにとどまっていた海辺の時間を感じさせる。

 

砂鉄川を流れる水へ砂鉄増し海底(うなそこ)の遺体を埋めてゆくなり  (田中濯)

 

「春と流謫」より。「砂鉄川」は作者の在住していた岩手県を流れている川らしい。その名の通り川の水のなかに砂鉄が流れているのだろうか。重みのある砂鉄が積もって、まだのこされている不明者を埋めてゆく。残酷なイメージがひろがり哀しい。

 

四年ぶりに職安に来つ被災者か否かを分ける欄できており  (田宮智美)

 

「呪文のように」より。淡々と詠まれているが、考えさせられるものがある。四年前にはなかった「被災者か否かを分ける欄」。作者は震災により天職を辞してしまったという。新しい職を探しに来た職安で、作者は被災者には入れない枠にいるらしい。仕事の紹介はまず被災者と認めれた人にむけてひらかれているのだ。「津波にも遭っていないし住む場所も家族もなくしていなんでしょう?」という台詞をそのまま詠んだ一首もある。被災の程度によってランクがわけられるということを、作者は身をもって感じているのである。

 

「被災者」と私たちは一括りにするが、この冊子の歌を読むだけでも作者はそれぞれにいろいろな方向を向いている。状況は細かくわけられ、想いや苦労も千差万別である。それを知るだけでも今の私には驚きがあり、大切なことであると感じた。

 

笑いあう日が来たらいい重力の底で繰り返されゆく暮らし  (浅野大輝)

何もない野原を越えて来る風に帰りの道のペダルが重い  (井上雅史)

みつめればみつめ返して咲く梅のそのはなびらもふるへてゐたり  (小林真代)

昔はよかったと思う昔は四年前 原子力発電所はその時もあった  (花山周子)

 

こういった歌にも心惹かれた。三年というのはひとつの区切りとよく言われるが、この冊子の冒頭の文章にもあるように「これから現れてくることの重さ」を「1099日目」から切実に感じる。