我が爪に深く食い入るくろき垢春深む夜の酔にきたなし

志賀狂太(石牟礼道子『葭の渚 石牟礼道子自伝』2014年)

 

石牟礼道子『葭の渚 石牟礼道子自伝』(藤原書店2014年)を読むと、青年期からの分岐のような位置に「歌人・志賀狂太の運命」という章がある。熊本の「南風(なんぷう)」という、蒲池正紀(かまち まさのり)がはじめた短歌会に参加して知り合った同年の歌人が志賀狂太であった。

終戦前に、韓国の羅南道202部隊(歩兵部隊)入隊。敗戦後ソ連の捕虜となり収容所を転々とする。1946年に復員。慶応大学通信教育学部に入学するが、結婚。以後アイスケーキ売り、パン職人、牛乳屋、印刷所などを転々、定職に就くことなく自殺未遂を繰り返し、5度目にとうとう亡くなった。享年26。「虚無感をたたえながら、至純さが匂い立つような彫りの深い歌をつくる人だった。しかし全体としては、春の野の泉のような若さがあふれている」とその人について石牟礼は書いている。

戦地から還って生きていくことに関心が薄くなった若者。戦後の青年の一典型であろう。とはいえ石牟礼の文章からは、春風のような爽やかさが漂い、決して陰々滅々な青年ではなさそうだ。石牟礼とは、文通を重ね、歌を批評し合った。

 

失意中僅かに保つ誇りぞも未明の街に降るさざれ雪

少(わか)きらの夢を壊(こぼ)たん言葉吐きわがかなしみを告げんとはしき

去りゆきし恋のひとつを笑ましくも思ひ出でたり稚なかりしよ

頭(こうべ)垂れ野を嗅ぎ廻る犬に似てこの日さもしく在り経しよ吾(われ)

 

このような歌が引用されている。「古典的心性と現代の苦悩の重層性。狂太の作風はより古典に近い詩情で言霊の響きをともなって、現代の苦悩を表現していた。」このように志賀狂太の歌を石牟礼は評価する。

掲げた一首は、印刷所で働いていた頃の歌であろうか。生活の哀苦が滲み出すような印象を受ける。爪先の汚れ、労働後の酒、なまぬるき春の宵――決して明るくはない戦後の若者の一生活が見えてくる。

戦争、そしてソ連への抑留、「人間の復権が考えられないほどに根底的な打撃」を受けたのだろう。「狂太」も、まさか本名とは思えない。「狂」を冠せずにはいられない荒惨を心に抱えていたのだろう。

 

春の風ふとやみぬれば呼び返す野の黄昏に没(い)りゆく葬列

毒の液ひらひらと振る手付きさへ死に遂げ得たる君にはふさふ

枯れ枝に手触れて汝の骨かと想ふまた風の中を削がれ来る声

 

これらは石牟礼道子の、志賀狂太の死に際しての歌である。志賀狂太は、石牟礼道子に文学が人生を賭けるに足るものであることを認知させて、そしてこの世を去って行ったのだろう。

「南風」の志賀狂太の追悼号の余白に、石牟礼は狂太のエピソードを書き留めている(『海と空のあいだに』「あらあら覚え」)。

 

「他の歌人たちと共に一夜を明かした部屋に、酔ってひっくり返り、指をかざしてみていた、失業者然とした姿を想い出します。その時私たちに彼は毒薬の壜を振ってみせ、それを取りあげると、子供があまえるようにすねた後、渡して『まだ半分、持っているんだ、うちに』と言い、皆をしらけさせたのでした。」

 

その半分の毒を呷って志賀狂太は死んだのであった。