いつだつて蛍光灯に照らさるるわれは浅蜊の殻より暗し

高村典子『雲の輪郭』(2014)

 

歌集を読み終え、あとがきを見て少し驚いた。作者はこの歌集では「悲劇的な歌はできるだけ避けた。」と記している。しかし、この一冊には静かで張り裂けそうな悲しみがずっと流れていた。

この一首はどういうことだろう。買ってきた浅蜊がボウルに入って置かれている様子を見ているところととった。浅蜊は薄暗い所に置かないと口をひらいて砂をはかない。光に照らされかたく殻を閉じている浅蜊。その浅蜊に自らの姿を投影している。作者はクモ膜下出血から失語症になってしまった。言葉の出てこない苦しみが閉じた浅蜊と重なる。その殻の中の暗さよりももっともっと暗い自分の内面を作者は表している。

 

生まれしを悲しと思ふ夕闇にチェンバロ響く家に育てり

赤きセーター似合ふよと言ふひとり子の声が現世にわれ留まらす

すぐ消ゆる蛍のごとくわれ病めばたちまち十五歳(じふご)で自立せしひとり子

 

このような歌もある。一首目、作者は自身の存在について否定的である。そんな想いのなかにいる日暮れ、生まれ育った家を思うとその家にはチェンバロが響いていたという。チェンバロはピアノに似た古い楽器でその音色も独特である。貴族社会を思わせる楽器だが、歌からは作者の母がそれを弾いていたようだ。いつも流れていたその音色も幼い作者の心を寂しくさせるものだったのかもしれない。

二、三首目はひとり息子を詠んだ歌。お母さんは赤いセーターが似合うといったくれた子、その何気ない子供の一言が作者をこの世に留まらせている。生きて行く一歩を支えてくれている。おなじ母親として私もよくわかる一首である。「母は強し」というが、いろいろな場面で母親は子供の存在に助けられていることが多い。三首目は実に頼もしい息子さんである。病弱な母をもつことにより早々と自立していく息子。息子のなかではさまざまな葛藤もあったかもしれないが、明るい光を感じる一首だ。

 

失語症のわれ「酒まんぢゅう」と言へず買ふ和菓子屋亀屋の看板に雨

梅、すみれ、日ごと私の言へしこと記し残さるる母の看病記

 

実際に私は失語症の人と接したことがないためこのような歌は驚きながら読んだ。一首目のようにものを買いに言っても以前のように普通に商品の名前が簡単に出てこないのだ。名前を言えず指を差して饅頭を買ったのかもしれない。二首目は失語症の作者を看病している母の歌。発することのできた言葉を一つずつノートに記していて、それはまるで初めて幼児が言葉を発した時のようだ。あとがきによると作者の言葉の回復はめざましいものだったらしい。そこには作者の長く苦しい努力や家族の協力などがあっただろう。

 

草叢を吹き行く風の見ゆる土手われはお尻で地球に触れる

 

病の歌と歌のあいだにこういったゆったりとした歌も出て来る。「お尻で地球に触れる」という下句が特にいい。作者の感性の豊かさと、これからの可能性の広がりを感じさせる一首だ。