戦ひにわが友多く死ににけり昭和二十年ひとしく行年十五歳

小見山輝『小見山輝歌集』(2013年)

 

現代の戦争は、全世代を巻き込むものだ。第二次世界大戦は、そのことを明瞭にした。とりわけ敗戦国日本は、それを痛感したはずだ。

小見山輝は、敗戦時15歳、1930(昭和5)年の生まれである。1945(昭和20)年2月、満蒙開拓青少年義勇軍に参加する。まだ15歳の少年である。

1931(昭和6)年の満州事変以降、日本は中国東北部を植民地化して満州国を樹立。五族協和、王道楽土をスローガンに満州国への移民が奨励された。義勇軍制度が創設されたのが、1938(昭和13)年、国内で3ヶ月の教育訓練、満州へ渡り現地の訓練所で農業訓練を3年間、終了後は建国農民として開拓団に移行して、当座は資金的な援助を受けながら入植する。募集対象は15~19歳であった。

小見山は、1945年2月に茨城県の内原(水戸市内原町)にあった訓練所に入所。少年航空兵に憧れる小見山だったが、おじが満州の鉄驪(てつれい)訓練所の幹部であった縁もあり応募。5月には満州のその鉄驪訓練所に渡っている。

小見山は、出身地である岡山県からの部隊、義勇軍は軍隊の組織と同じで一個小隊50人。四個小隊で一中隊、総勢200人。現役教員や召集解除で戻った教員、農業指導者に引率されて、博多から釜山、朝鮮半島を縦断、奉天、哈爾濱、そこで乗換え、佳木斯(ジャムス)へ向かう途中鉄山包(てつざんほ)に目的の訓練所があった。内原から博多まで鉄道で2泊、釜山へ船で1泊、鉄驪に着いたのは5月16日。8日間の行程であった。途中の東京も大阪も大空襲に無惨な状態だったはずだが、それを見せたくなかったのであろう深夜に通過している。

鉄驪訓練所は大きな施設であったが、電灯もなくランプ、一小隊50人ずつの宿舎で軍隊式の生活を送った。三八式歩兵銃を持たされ、小見山は大隊厩舎にまわされ草刈り、大豆、小麦、南瓜、コーリャンの作付けに追われた。しかし、南瓜以外の収穫を見ることはなかった。三ヶ月で終戦を迎えたからだ。

満州奥地には義勇軍開拓団をはじめ一般の開拓団も多数存在した。働き手の青年男性は皆現地召集、残るのは老人と女子供のみ。軍隊は、敗戦で逃げ帰り、女子どもが満州の野に置き去りにされたのである。そこへソ連軍が戦車を先頭に侵入してきた。悲劇が起こらないわけがない。

ただ小見山の所属した義勇団は、未成年であることもあって帰還が許された。とはいえ日本までは遠い。寮母さんや看護師の女性は男装をして長春を経て西安へ。西安では約10ヶ月炭鉱で暮らし、その後、遼東半島の葫蘆島の港を出て佐世保へ。ようやく日本へ戻る。西安を出たのは1946(昭和21)年7月25日、佐世保港内での検疫などを終えて日本本土に上陸したのは9月5日頃であったという。大変な苦労を経験して、故郷に帰ったのだが、小見山の在所小田郡出身の者最初は20数名だったのが、帰還したのは10数名という。

少し細かく満蒙開拓青少年義勇団の消息を追ってみた。歌の背景が分かるだろうか。内容は、現代短歌文庫『小見山輝歌集』(砂子屋書房)に収録された小見山と神崎宣武の対談「満蒙開拓青少年義勇軍の記憶」に語られたことがらを整理してみた。小見山の記憶は、いまだ鮮烈である。「死んだ人がたくさんいるでしょう。それなのにわしらばっかり帰ってきてという、そういう、うしろめたさはやっぱり払拭されないんですよ。今はこうやってお話していますが、義勇軍で満州に行った話はずーっとしてなかったです。五〇過ぎてぐらいからです。ぼちぼちと話せるようになったのは。」というつらい告白もある。短歌にしても、そうだろう。

 

男装となりてにほへる女医なりき「四平」にて別れその後を知らず

満州にありし二年を生涯の空白ともまた否とも思ふ

稚くて死ににし者等たましひの水辺に遊ぶせせらぎの音

恨みすら知らず死ににき稚魂野に山にかへれ清々として

 

再び戦争に子どもが巻き込まれないように、戦争が起こらぬことを祈る。

 

編集部より:『小見山輝歌集』はこちら↓

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