六十年むかし八月九日の時計の針はとどまりき いま

竹山広『空の空』(2007年)

 

前日に続いて竹山広の歌を。重複は偶然だが、それだけ重要な歌人であり、歌だということだろう。内容に重なる箇所があるが、ご容赦を願います。

1945(昭和20)年8月9日午前11時2分、長崎に原子爆弾が炸裂した。6日の広島に次ぐ2度めの原爆投下であった。当時の長崎市の人口24万人、そのうち14万9千人が死没した。

竹山広(1920~2010)は、この原爆投下の日、結核で入院していた長崎市浦上第一病院を退院する予定だった。爆心から1.4キロ、奇跡的に軽傷で済むが、迎えに来るはずだった兄を失っている。

竹山にとって原爆体験は、忘れることのない記憶であったことは、今更多言を要すまい。この歌のとおりである。2005年から60年前の8月9日、その日の午前11時2分、時計の針はそこにとどまったままなのだ。60年を経た今も。そして、それは竹山の死を経て、69年のただこの今も、その惨劇の記憶を消すことはできない。

竹山だけではないが、被爆者にとって原爆の記憶は、決して思い出になどならない。「被爆の時から被爆者の体内に棲みつき、彼や彼女が生きる限り原発もまた生きつづける」「思い出とはならない体験」だと竹山の最初の歌集『とこしへの海』の「序にかえて」に佐佐木幸綱は書いた。そして、「思い出ならば美化されてゆくこともあろうし、また風化してゆくこともあるだろう。だが、原爆被爆の体験は、美化とも風化とも無縁に、ひたすら深化されてゆくのみである。時間とは、そこでは深化なのであった」と述べる。至言であろう。この歌の「六十年」がその深化であり、それはさらに竹山の死まで深まり、さらに竹山死後、その思いをわれわらは受け止めねばならない。さらなる深化に堪えて、同じ事が二度と起こらぬように思いを新たにせねばなるまい。時代は、深化を妨げ、美化、風化へ動こうとしている。

 

血まみれの友つぎつぎに負はれきてわがかたはらに呻きうめかず

鼻梁削がれし友もわが手に起き上がる街のほろびを見とどけむため

傷軽きを頼られてこころ慄ふのみ松山燃ゆ山里燃ゆ浦上天主堂燃ゆ

背なか一面皮膚はがれきし少年が失はず履く新しき靴

血泡噴きて土に身を捩ぢゐたりしが息絶えていまいとけなきほと

生きのびしわれら相寄り療庭に一夜明かさむむしろを並ぶ

申しわけのごとき傷ひとつ脇腹に忘れをりたる夜半疼きくる

暗がりに水求めきて生けるともなき肉塊を踏みておどろく

水を乞ひてにじり寄りざまそのいのち尽きむとぞする闇の中の声

 

被爆の日の浦上第一病院である。『とこしへの川』の巻頭一連の前半から引いた。この歌集が出版されたのは1981(昭和56)年、被爆から36年が経っている。それだけの深化が必要だったということだろう。われわれがすべきことを考えねばなるまい。