明日という日もなき命いだきつつ文よむ心つくることなし

木村久夫『きけわだつみのこえ』(岩波文庫・新版1995年)

 

『きけわだつみのこえ』の書名だけは、ずいぶん早くから知っていた。著者たちには申し訳なく思うのだが、不心得なことを書く。

小学校の高学年になった頃であった。すでにこの頃から私の書店通いは始まっていた。少ない小遣いから買えるのは週一冊の漫画雑誌、そして二月に一冊程度の少年向けの本。今でも記憶にあるのは、良寛の伝記、幕末維新期のエピソードを少年向けに書いたもの、家康の一代記。これらは結構大きな影響を私にもたらしたが、ここで語る事ではない。

ただ書店通いは日課になっていた。小さな町の本屋である。限られた書棚の本は、たいてい配列を覚えてしまった。ガラガラと立てつけの悪いガラス戸を開くと平台があって、そこに目当ての漫画雑誌や大人向けの週刊誌の類が置かれ、立ち読みお断りの札が貼られていた。

ただ、この本屋のあるじは優しいおじいさんであった。たぶん今の私とそう変わらない年齢であったのだろうが、ずっと老けて見えたのは、時代であろうか。その老人が不在時は、おばさんが店番に座る。おじさんが優しいのに対しておばさんは恐かった。立ち読みをしようものなら、怒声と共に即座にはたきを持ち上げて立ちあがる。だから本屋遊びはおじさんが店番の時に限った。

ここで色々な本の存在を知ったのだが、青年向けの週刊誌に興味を持ったのもその店でだった。「平凡パンチ」の表紙が、今でも印象に残っている。さすがにページを開く勇気はなかった。とはいえ悪童と一緒のときは蛮勇をふるう。周囲への注意は怠りなくグラビアページのきれいなおねえさんの裸に高揚した。さすがに一人の時は内容の点検には及ばないのだが、当時「平凡パンチ」の表紙は動物シリーズ、半裸体のきれいなおねえさんがボディペインティングをほどこし動物に見えるようなスタイルに写したものだった。シマウマとかカバとか。これがグロテスクだがエロスとユーモアを刺戟する。たしか立木義浩の仕事ではなかったか。

話がズレてきた。『きけわだつみのこえ』についてだった。本屋通いの日々、書棚にふしぎな書名の本があることが気になっていた。ひらがなだけの意味不明の書名。しかも光文社カッパブックスの一冊、なんだかいかがわしい。

無知な少年たちは本を開くことなく、書名を「きけ わだつみのこえ」ではなく「きけわだつ みのこえ」と読んだ。後は言うまい。

その不心得に気づいたのは、高校生になって実際にこの書を読んだときである。戦没者学徒の手記であることに気づいたときの恥ずかしさというか、自分の莫迦さ加減にあきれるばかりであった。三島由紀夫の自決に大きな衝撃を受けたその後であるから、いっそう慚愧にかられた。

くりかえすが、『きけ わだつみのこえ』は、日本の戦没学生の手記を集めた本だ。不謹慎きわまりない「ヰタ・セクスアリス」めいた話題の後に本書の意義を説くのも、また後ろめたさを感ずるのではあるが、八月のこの「日々のクオリア」には、戦争にかかわる歌をという私の小さな目論見があるのでお許し願いたい。

 

木村久夫は、1918(大正7)年、大阪生。高知高等学校を経て、1942(昭和17)年、京都大学経済学部入学、そしてその年10月入営。敗戦後1946(昭和21)年5月23日、シンガポールのチャンギー刑務所に戦犯として刑死。陸軍上等兵、28歳であった。

木村の手記は、死の数日前手に入れた田辺元『哲学通論』の余白に書かれたものである。田辺元は、西田幾多郎と共に日本的哲学の可能性を追究した京都学派の哲学者。最近、中沢新一をはじめ再評価の動きがある。ただ、ここでは『哲学通論』の内容が問題ではない。書き記す紙片がないところに偶々手に入った『哲学通論』、再読するとともにその余白に死を前にした思いを記した。それがこのように活字化されて、読み継がれることになった。奇跡のようなことである。

手記は、死を目前にしながらの記述であるはずだが、意外なほどに穏やかで、文章も実に冷静だ。「日本は負けたのである。全世界の憤怒と非難の真只中に負けたのである。」「日本がこれまであえてして来た数限りない無理非道」と、この時代に客観的に事態を判断している。

死刑判決を受け入れたが、それは真実に基づいた判決ではない。「私は何ら死に値する悪をした事はない。悪を為したのは他の人々である」と確信しながら、「弁解は成立しない」ことも冷静に理解している。こうした「不合理」は、過去にこの日本が他国人に強いてきたことだ。だからそれが自分の身に起こったとしても容認する。「日本の軍隊のために犠牲になったと思えば死に切れないが、日本国民全体の罪と非難とを一身に浴びて死ぬと思えば腹も立たない。」

この冷静と寛容には驚くべきだ。軍隊、特に陸軍内部への批判も痛烈だ。「美辞麗句ばかりで内容の全くない、彼らのいわゆる『精神的』なる言辞を吐きながら、内実においては物欲、名誉慾、虚栄心以外の何ものでもなかった軍人たち」、「軍服を脱いだ赤裸の彼らは、その言動において実に見聞するに耐えないものであった。」

木村は、自分の刑が不合理なものであることを知っていた。どうやら告発をしたように感じられる箇所もある。しかし、彼は全てを承知の上に死を受け容れた。学問を続けられない無念を吐露しながら、家族への思いやりも記し、そして最後に短歌11首を残した。

 

朝かゆをすすりつつ思う故郷の父よ嘆くな母よ許せよ

音もなく我より去りしものなれど書きて偲びぬ明日という字を

風も凪ぎ雨もやみたりさわやかに朝日をあびて明日は出でまし

 

そして今日のこの一首である。学問への憧れがなんとも悔しく思われる。この手記にあらわれた人格は、おそらく大した学者に育ったに違いない。こうした時代の二度と訪れることがないことを祈る。書名を読み違えて、奇妙な妄想にへらへらしていられる世が続くことを願うのだが。