秋を待たで枯れゆく島の青草は、皇国の春によみがへらなむ

牛島満 1945年6月

*皇国に「みくに」のルビ。

 

八月いっぱい私の担当の日は、戦争にかかわる短歌を紹介してきた。今日はその最後である。

沖縄第三十二軍司令官牛島満(1887~1945年)の辞世の短歌である。沖縄県民をも巻き込んだ壮烈な戦闘の責任者である。村民を楯にした軍の卑劣、愚行は批判してもしきれない。その責任者の辞世として、どうだろう。自分たちの招いた悲惨の責任を問う姿勢がないことに怒りというか、ただむなしさを感ずるばかりだが、これが皇軍エリートの実態であろう。

しかしながら、もう一首「矢弾尽き天地染めて散るとても、魂がへり魂がへりつゝ皇国護らむ」とともに二首の辞世を書き残し、八十余日の激戦の後に、摩文仁岳に長勇参謀長と刺し違えて自刃したという事実には心が動く。あらためて戦争とは何か考える必要を感ずる。

この牛島満の辞世に折口信夫が反応した。「島の青草」(新『折口信夫全集』33巻所収)は、「沖縄を偲びて」と副題のある戦時中のエッセイだ。

1945(昭和20)年6月25日ラジオで沖縄の陥落が告げられ、牛島満中将の遺詠が発表された。折口はそれを聴いた。

 

「白波砕くる残波岬の夜明けの海が、何といふことなく、まざまざと私の目に浮んで来た。」「その岬の鼻に揺られ漂ふ、その昔(カミ)見た独木(クリ)舟になつたやうに、動揺した。その瞬間、岬の残巌に即くともなく、また離れてゞもなく、ひと群の青草が、目にちらついた。その草原の緑が、目に沁むやうに思はれる。」「岬の青叢、寂しい巌むらの上にそよいでゐる幻想――。」

 

この美しい幻想は、「牛島中将の歌から出た印象」であり、「故沖縄軍最高指導者の辞世の持つた若々しい印象力」であった。そしてそれは、「一首の歌の均整をつき破つて、目立つて飛び出てゐる部分なる、語の瑞々しさ」に因っていると指摘する。

その語がどこを指すのか折口は明瞭に言っていないが、結句にかかわっていることは間違いない。「よみがへりなむ」ではなく「よみがへらなむ」となっていることに注意してほしい。「『よみがへらなむ』としてある以上は『よみがへつてくれ』『よみがへつてくれるやうに』といふ義である。わが身の志を継承して行くものゝあることを祈つてゐることになるのである。それを朽ちゆく青草にかけて、志の生き甦つてくれるやうに、といふ表現をとつたのである。」

《「甦り」(連用形)+「な・む」(完了の助動詞「ぬ」未然形・推量の助動詞「む」》か《「甦ら」(未然形)+「なむ」(終助詞)》の違いだ。ここでは後者、「ある行動・事態の実現を期待し、あつらえ望む」(日本国語大辞典)意味になる。死にゆく者の次代への痛切な祈りが、この語法によって生きる。

「よみがへりなむ」と「よみがへらなむ」――わずかな、微妙な差異ながら、是非読みくらべてもらいたい。そして折口は、「微妙な感にうたれずには居られぬことは、さうした歌詞の文法に触れて居られる筈のない将軍が、どうしてかういふ緻密な表現を獲たかといふことである。」古典文法に馴れた専門歌人にすら微細な語法を、どうしてふだん使用しているとは思えぬ軍人に可能であったのか。

それは、「感情が切実になればなるほど、言語の本質に迫つて行く、最適切なことばを択び出す力は、最緊張した感情にあつた。文法とさへ言へば、論理的なものと思ひ、理知的に選択するものと考へてゐるのは違ふ。深い表現は、自ら的確な文法を捉へることになるのである」と折口は断言した。

「秋を待たで枯れゆく島の青草」にしたのは、それこそ牛島が指揮した沖縄戦の戦闘の結果である。牛島は、まさにその張本人・責任者だが、戦後の次代への祈りのような気持ちは嘘ではない。それがこの天与のごとき微妙な語法にあらわれたのである。「皇国」であることは、勿論問題だが、戦後の春への祈りには切実なものがある。

さらに二首目の牛島の辞世についても折口は興味深いことを言っている。四句にあたる「魂がへり魂がへりつゝ」と十二音(五音七音)の破調になっている点に注目し、さらにそれが結句七音につながることから新詩型への可能性を見ようとしている。詳しくは原文にあたってもらいたい。

牛島満の辞世の短歌は、たしかに軍国・皇国時代の日本人のエッセンスのような表現である。ただ、そこにも歌の力は存在し、日本語詩歌の未来につながる可能性すら論ずることができる。時に棄て去ったものを見直す余裕も持っていたいものだ。