ゆつくりと朝の机を拭き終へて場所が居場所に変はれる不思議

鈴木千登世『向きあふ椅子』(2014)

 

これは朝の食卓の様子だろうか。家族が朝食を食べたあとを片付けてきれいに拭いた机。家を守る主婦にとってはここから一日が始まる。片付けたり、掃除をしたりするのは、大きく言えば家に家族の居場所を日々作っていっていることだ。場所と居場所、言葉は似ているが「居場所」の大切さをこの歌からあらためて感じた。

 

火遊びをして待ちをりし二人の子日暮れそんなにこはいかこはいか

出てゆけと言はれてもさて 三十年ローンはからずもわたしを支ふ

 

一首目は、留守番をしていた作者の二人の子が火遊びをしていたという歌。幸い何事もなかったようだが、「そんなにこはいかこはいか」と子を責めながら、作者自身も自責の念に駆られているように読める。日頃から注意はしていたものの、それでも、幼い子供たちは何をするかわからない存在だ。二首目は夫婦喧嘩の場面だろうか。「出てゆけ」と言われて出て行こうとしたものの、今住んでいる家のローンがまだまだ残っていることを思い出し、はっと現実にもどされたのだ。「はからずもわたしを支ふ」という表現が面白い。日頃は苦痛に思っていたローンが喧嘩で傷ついた心を支えた。

 

映るより映らぬものを想ふ日々砂漠貫きゆく装甲車

身を削ぎて産みたるものを亡骸のひとつにひとつ臍の窪あり

 

このような時事詠もこの歌集には多く出て来る。これはイラク戦争の歌だが、同じようなことがどの戦争の報道に対していえるだろう。画面に映る装甲車がその後、どこを攻撃しどんな犠牲が出たのかはわからない。報道されないものを知らない怖さがここにある。

二首目は戦死者をおもう歌だが、女性として命を産む側から強く詠まれている。「身を削ぎて」、女性が命をかけて産んだひとつひとつの尊い命。その証に亡骸すべてにひとつずつ臍の窪があるのだ。当たり前のことだがあらためて言われるとはっとし、とても哀しくなる。「ものを」という接続助詞も効いている。「米兵の死者は四千、イラクびとの死者は九万、開戦五年」という歌とあわせて読むとさらによく伝わってくる。

『向きあふ椅子』は作者の二十年間の作品を集めた第一歌集であるが、時間が自然に流れていて、教師という仕事をしながら子育てをし、歌を詠んできた作者の人生がしみじみと伝わってきた。