離りゐて 思ふはすべなし。常世子は 雛祭に 仕へつらむか

藤井貞文『藤井貞文全歌集』(2003年)

*雛祭りに「ひゝなまつり」のルビ。

 

藤井貞文は、國學院大學国史科を卒業、文部省維新史料編纂官、文部事務官、国立国会図書館調査員を経て、國學院大學教授、以後退官までつとめた幕末維新期を研究する歴史学者である。『近世に於ける神祇思想』『明治国学発生史の研究』『江戸国学転生史の研究』『開国基督教の研究』『神とたましひ―国学思想の深化』などの著作がある。

1906(明治39)年、下関吉見の八幡宮の祀職の家に生れ、1994(平成6)年、88歳を目前に死去。藤井貞文は、大学予科で折口信夫に出会い、同期の藤井春洋(後の折口春洋)らとともに深く師事することになる。折口を中心にした「鳥船社」の結成にかかわり、短歌を作る。歴史学者であるが、藤井は終生短歌を作ることを止めなかった。折口のもっとも忠実な弟子の一人であった。没後、遺族の手もとには多くの歌稿が残された。

折口信夫の弟子への教育が全人的なものであったことはよく知られている。藤井も、その折口の指導に従った。「鳥船社」では、短歌を雑誌に発表するとか、歌集を作るということは考えない。折口の全人的な指導にひたすらに従うことを喜びとして、短歌を鍛錬のごとくに作り続けた。折口をめぐる短歌を中心にしたこの稠密な師弟関係は、現代のわれわれからすると窮屈なものにみえるけれど、その内部にいたものには、かけがえのない至幸の時間空間であったのだろう。

國學院大學の折口博士記念古代研究所には、折口生前の写真なども残されていた。その中に「鳥船社」の会員が旅にくつろぐ姿が写されたものが幾枚もあった。そこに写る折口をはじめ会員たちの姿や表情は、なんとも楽しそうで、いい大人がこんなに無邪気な表情を、と思わせるようなものだった。その中に藤井貞文の姿もあったはずだ。

藤井貞文は、作品を自ら清書して、年度別に纏めて仮綴りしたり、草稿を束ね、また手帳・ノートに記して残した。師の没後に、歌集にまとめようと試みたこともあったようだが、実現しなかった。その残された膨大な作品群から、長女で歌人である藤井常世が『藤井貞文全歌集』(不識書院)を編集・刊行した。収められた歌数は4593首、五千首に及ぼうとする

その数は、生涯の作歌の数として大したものであろう。学者の片手間ではない。近世国学者の歌作と重ねて見れば腑に落ち、折口の指導が奈辺に在ったのかも察せられる。

年度別にまとめられた歌冊の中で、とりわけ注目されるのは「爪哇幽囚抄(じゃわいうしうせう)」である。藤井常世による「跋」によれば、『全歌集』における「昭和十八年(その二)」、および「昭和十九年」に該当する

藤井貞文は、1943年秋に出征、ジャカルタ医科大学に教授として赴き、国史を教えた。前戦での直接的な戦闘にかかわったわけではないが、学者として戦地に赴く。ジャワで過ごし、敗戦を経て虜囚となり、1946年初冬に復員する。その出征から戦地の日々を藤井貞文は歌い続けた。

 

宇治橋を渡れば 既に礼(ゐや)深し。腰に馴れざる 軍刀の重さ

夕凪に 底明り来る海の色。沈船くつきり 見えてゐるなり

戦ひの過ぎにし島と思へども、入江かぐろき 夕ぐれの色

靴に触るゝ 草生の葉ずれ 音淋し。越え来し山を すこおる渡る

両脚(もろあし)にまつはる軍刀 抑へつゝ 歩めば厳し。滑走路の照り

厳かに 我が誦み上ぐる日本書紀、謹みて聞け。若き顔にも

 

ジャワ島へ向かう途次、伊勢神宮に軍装をして拝礼し、ジャワへの航路に戦闘に沈められた海底の軍船が映る。南島の戦地へ赴いた日々が写し取られている。若き軍医・看護師の卵たちに『日本書紀』を講ずる。よほどに馴れなかったのだろう軍刀を気にしているのが、ほほえましく思う。迢空ゆずりの表記法も的確であり、「鳥船社」での鍛錬が分かるだろう。

 

今日よりは 我も虜囚となりぬべし。雨に濡れつゝ 時を待つなり

終日 石炭かつぎて 走りたり。英兵の怒号に 怒りを感ず

味噌汁を すゝろひて終る 夕食なり。一日かつがつ 生きにけるかも

遠ざかる港の色の 薄れつゝ 未だ輝く 椰子の葉の色

祖国見ゆ。つぶやく如き人の声、あまり静けし 疲れゐるなり

 

これらは敗戦後、虜囚となり、本土に還り着くまでの歌である。

この「爪哇幽囚抄」は、詞書も添えて、和紙様の原稿用紙に墨書し綴じ合わせた草稿がまずある。帰還の後、ある時間を経て、迢空に見せるために作られたと思われる。草稿には、紫のインクで○やヽの印、ところどころに直しが同様のインクで記されているというから、迢空の手が入っているとみていいだろう。その後、数度の改稿が企てられたようだが、結局刊行には至らなかった。二番目の草稿の表紙には「爪哇幽囚抄」「爪哇南島抄」「南島唱」などの題を書いては消して、その思考の跡が残されているという。

今日の一首に選んだのは、ジャワにあってまだ穏やかだった時期の歌である。「三月三日、この日は女子学生の為に、雛祭の話をした。」と詞書がある。1944(昭和19)年のことだ。看護師になる若い女子学生たちに折口ゆずりに民俗学的な雛祭の解説をしたのだろう。そして、その同じ日、遠く離れた本土日本では、娘である常世(「常世子」は常世が娘の名。命名は折口による。子は愛称)が雛祭を祝っているだろう。戦地に遠く愛娘を思う、やさしくせつない父親がいる。藤井常世、当時3歳であったか。その藤井常世も昨年思いがけず急逝。ちなみに藤井貞文には三人の子どもがあった。長女は今述べた。次男は貞和、よく知られた詩人学者であり、次男も歌集を持つ。歌の家のごとくである。