秋風に見つつかなしも蟹ふたつ相寄り激流に沈みゆきたり

田中栄『冬の道』(1993)

 

田中(さかえ)という名は女性のようであるが、本名は「しげる」と読む。

この歌は、沢蟹であろうか。二匹の蟹が戯れていたと思ったらたちまち激流に飲み込まれていった。「かなしも」と言いながらそのまま淡々とみつめている作者がいる。小さな生き物の抗いようのない死、運命を激しい水音のそばで見送っているのだ。

 

得体知れぬ我と先生の言いましき我さえ分らず川を見ている

弾力ある顔らに対いてもの言いつつ不意に透きゆく河を意識す

 

これも川を詠んだ歌。ある日、師と仰ぐ人に作者のことを得体のしれない人物と言われた。それは表現者としてはさまざまな世界観をもっているという良い意味かもしれないし、また何を考えているかわからないという、良くない意味にもとれる。作者はその言葉にとまどいつつも自分でさえそのような自分の内面を摑みきれずにいる。「我さえ分らず川を見ている」というところに寂しさがある。

また二首目は講義をしている場面を詠んでいる。「弾力ある顔ら」は何かおもしろい言い方だ。人々がみんな自分の方へ眼差しを向けてくる。その顔が平面的でなく生き生きと弾力をもって存在する。下の句の河は窓の外に見えるのだろうか。それとも意識の中に不意に入り込んできたのかもしれない。話している口とは別に混ざりこんでくる意識を詠んでいるようで面白い。

 

この歌集の最後には「母逝く」という一連がある。

 

不吉なる予告のありて井戸の底竿に探ればああ母がある

克明なる日記残りいて日々の中かく喜びも綴りしものを

母の喪にこもりていたく痩せたりし妻の顔剃る明りに向きて

おのおのに負う罪見えずわが前を人はかがやく顔をして過ぐ

何時見ても風に抗う向日葵よ亡母(はは)は今では死ぬことはない

 

今読んでもとても衝撃のある歌だが、作者と一緒に暮らしていた八十代の実母が井戸に飛び込んで自死してしまったのだ。「竿に探れば」には、深い井戸の距離というものがこの道具に出ていて、「いる」でなく「ある」という結句も哀しい。二首目は、どうしてそんなことをしたのか、納得のできないままに母の日記を辿っている作者がいる。日記の中には悲しい日々ばかりでなく喜びを感じている日もあったのになぜだろう…と。三首目には心痛で痩せてしまった妻が詠まれているが、その痩せた顔の産毛を剃っている。何か生々しさがある。四首目では、人には犯した小さな罪が少なからず一つや二つあるだろう。でも外側から見ているだけでは何も知ることはない。みんな輝くような顔で過ぎて行くのだ。それは自分自身も他者から見ればそうである。「負う罪」は作者が死んでしまった母に対して感じていることかもしれない。五首目、向日葵は太陽に向いて咲いているのではなく、風に抗って孤独に咲いているのだ。死んでしまった母はもう一度死ぬことはもうない。もう一度死の苦しみを味わうことはない。それだけが作者のただひとつの救いとなったのかもしれない。