前田康子


この路をすきとほらせよ車椅子みづいろなればさかなもよりく

渡辺松男『きなげつの魚』(2014)

 

車椅子に乗りながら作者が見つめているのはどこまでも続く道である。その道が透きとおる川のようにあってほしい、そうすれば魚も寄ってくるだろうと願っている。「車椅子」という素材が柔らかく夢に包まれたような一首だと思う。普通に歩行しているものにとって道はただ踏みしめて過ぎて行くものだが、車椅子に乗ると視線が低くなり道も視界に近づいてくる。川のような空間がそこに広がるのが私にはわかる気がする。魚たちは話しかけるでもなく、そっと近づきまたそっと去っていくのだろう。

 

岸、すでに空なれば濃き群青色(ぐんじやう)と接する車椅子の足元

 

車椅子の歌をもう一首。高い崖のような所にいるのだろうか。そこから先は何もない、空の一部である。車椅子の足元がその濃い空の色に接していて、空に触れているようなイメージが伝わる。車椅子で動く作者は不自由ななかにいるはずだが、だからこそ縦横無尽に広い世界を動こうとする意識があるように感じる。一首目の「みづいろ」と二首目の「群青色」。どちらも美しく透明感がある。ただこの二首目の歌はそのような場所に車椅子でいることにどこか危険な感じもする。

 

めまひ 否 関東平野といふ敷布いつしゆんにひきぬかれたり

 

テーブルの上に敷布をひいてその上にグラスを置き、グラスを倒さないようにさっと敷布を引き抜く芸がある。下句はその芸を思い出した。めまいを起こしぐらっときた感じを、関東平野を敷布にたとえてひっくり返るようなイメージで作っているのだと思うが、地震がきたようなイメージにもとれる。

 

なにもわるいことなどしてゐないのに寒いひとつひとつの赤たうがらし

 

どこで切れるか、歌意もよくわからない。しかし何かふつふつと感情を揺さぶられるものがある。「寒い」で切れているように読むと何か寂しい寒さのなかに作者がいて、目の前には赤唐辛子がいくつもある。その赤が怒りの色のようでもあり、辛いので目に沁みてくるような強い存在感を持っている。

 

()のなかのなんにんの吾かなんにんの吾のなかの吾か秋うろこぐも

 

鱗雲が秋の空に広がっている。その模様のように、同じような自分が何人も存在する。多重人格とまではいかないが本当の自分がどれであるかわからなくなる時はある。四句目まで呪文のように詠まれているが、自分のなかにたくさんの自分が存在するのか、たくさんの自分の中に本当の自分が一人存在するのかということだ。考えれば考えるほどわからないけれどそのまどろっこしさがおもしろい。

 

 

編集部より:本日の更新が遅れましたこと、お詫び申し上げます。