夜半の雨しずかに心濡らすとき祖母たちの踏むミシン幾万

松村由利子『耳ふたひら』(2015年)

 この欄のエッセイを交代で書いている松村さんの新刊歌集である。読みやすいし、言葉がいきいきとしているし、とにかくおもしろい。ふだんこの欄の松村さんの文章を愛読している人は、彼女の引用歌さながらに気の利いた歌が一巻にまとめられていることに贅沢な喜びを得ることができるだろう。掲出歌は、女の生活と命の歴史というものに思いをはせた傑作である。ここまで何か月かの松村さんの書き物を見ていて、私は彼女がフェミニズムの思想を感性のレベルで批評しながら検証しようという意図を持っているのではないかと感じて来た。この歌集はそこに一つの展望をひらいている。

 

録音も録画も許されぬ秘祭夕日じんじん沈むも怖し

ああわたし大地とつながる手をつなぎ踊りの輪へと入りゆくときに

 

私は作者が元から沖縄に住んでいた人ではないので、ウチナンチューになりきれない苦しさがあるのではないかと思って読み始めたのだが、そこは女性であるということの地盤があって、短期間のうちに島の文化の深層に触れる体験を詠むところまで、沖縄の経験を掘り下げているのである。観光客や一時的な滞在者の視線ではなく、新たな島の住民として、東京(ヤマトの文化)を見ようとしながら、外部の視線による新鮮な驚きと感動が、常に己の言葉を内側と外側から支え続けている。そしてその外からやって来た者によるあこがれと尊敬の念の率直な表白は、いたって自然な感覚の言葉であらわされているのである。つまり詩的言語が認識の言語としてうまく機能しているのである。

この連休中に安藤礼二の『折口信夫』をめくっていると、沖縄の祭のことが折口との関わりの中で、わかりやすく書かれていた。これは積年の疑問を払拭する書物であった。南島には国家以前の共同体を統治する祭祀が生き残っている。そのことへの関心と近代以前の女性の力に触れようとする営みは、等しい質を持つものではないだろうか。フェミニズムと言われた思想の豊富化または日本的な進化のための鍵は、根源的なものへの接近を可能にする南島の文化にある。この歌集は、作者の丁寧な沖縄の心への近づき方がわかる歌群である。

 

津波石と呼ばれる巨岩島にあり推定重量七〇〇トンの

作者が沖縄に移住したのは、東日本の震災以前だが、沖縄にも激烈な津波の痕跡がある。散在する離島に住む人々の津波対策は大丈夫なのだろうか。きれいな海を埋め立てるよりも、そちらの方が先なのではないかと思ったりしたことである。