危き足に走りゆく者なり追ふ勿れ笑ふ勿れ影を見送れ

小暮政次『暫紅新集』(平成七年)

 この歌は、「全歌集」の六六一ページに載っている。「危き足に走りゆく者なり」というのは、誰の事なのか。次々と浮かんでは消えてゆく自身の想念を擬人化しているようなところがある。一連十二首は、そうした自己内対話を他者への呼びかけに転換した話法が、特徴的である。

 

物差しが短いのは仕方がない然し線は引けます強く引きなさい

 

この歌は、先に「物差しが短いのは仕方がない」という述懐があって、それを下句で「然し線は引けます」という他者への誘いかけの言葉に転じ、さらに「強く引きなさい」という命令形へとだんだん高揚してゆく。命令形の相手は、他者であってもよいし、己自身であってもよい。掲出歌がこれと同じ構造を持つとすると、まず「危き足に走りゆく者なり」と認識してから、「追ふ勿れ」「笑ふ勿れ」は漢文的な文語の口調による強い禁止の言葉であり、さらに「影を見送れ」は、文語とも口語ともとれる命令形である。なかなかつかまえられない考えの断片のようなもの、もう少し具体的に言うと人生の意味のようなもの、そんなものは、追いかけようとしても無駄だと己に言い聞かせようとしているようにもみえる。

初期の『新しき丘』『春望』あたりの、いかにも正調「アララギ」という感じがする歌を知っていて読むと、驚くほどの作風の変化が、この『暫紅新集』にはみられる。小暮政次の場合は、何十年も「アララギ」の仲間の手厳しい批評の目にさらされながら歌を作って来て、その上での自由の獲得ということである。くだけた調子のなかにも格調があり、そこが魅力となっている。これは宮地伸一の場合もそうだった。

九十年代の話だが、中野サンプラザの地下の食堂で、歌会が終わったあと食事をしながら、近藤芳美が、「小暮政次はいいよ」とぽつりと言った。ほかの歌人の名前を自分から持ち出して言うという事は、なかなかしなかった人である。「君は小暮政次を知らないのか」というようなやりとりがあったと思う。ちょうどこの歌集の一つ前の『暫紅集』が出た頃だったと思う。「ああ、近藤さんが意識できるような歌人は、土屋文明をのぞくと小暮政次あたりなんだな」ということが、読んでみて何となくわかった気がした。私はその頃、「最近宮柊二の『山西省』を読んだのですが、あれをどう思われますか」なんていうことを平気で先生に尋ねていた。若気の至りで、今思うと冷や汗が出るが、ぽつりと返って来る一言から教わったことは多い。

土屋文明没後の「アララギ」の高弟の歌は、おもしろく読めるようになったものが多かったのだが、文体の変化については、相互に微妙な影響があったのではないかと私は考えている。それは比較的変化に乏しい近藤芳美の歌も例外ではなかったのではないかと思う。小暮政次は、近藤が考えていた思念の歌、思考する者の歌、という局面で独歩し、先行する所が少なからずあったのではないかと思うのである。