松村 由利子


美しき球の透視をゆめむべくあぢさゐの花あまた咲きたり

        葛原妙子『原牛』(1960年)

 

紫陽花の歌は多いが、葛原妙子のそれは独特である。「あぢさゐの花」が、「美しき球」を透視することを夢見つつ、たくさん咲いている--という光景は、なんだか入れ子構造のようで、くらくらさせられる。紫陽花自体が「美しき球」なのに……。

この歌が作られた時期、葛原は「美しき」ものを希求していた。

 

美しき挙手をわれみつ断崖の小径に自動車(くるま)の擦れちがふとき  『原牛』

青き木の実の憂愁匂ふうつくしき壮年にしてめとらざりにき

うつくしき苑掘られゐてうづたかき土ありありと目の前に盛る

 

『原牛』の最後には、「うつくしき」という小題の付けられた三首が置かれており、葛原の詩想の傾きを感じさせる。「幻視の女王」と呼ばれる葛原は、眼前の俗なる種々のものを通して、何か現世を超越したよきものを見ようとしていたのではないだろうか。この時期の彼女にとって「うつくしき」は、「全き」と同義だったように思う。

また、葛原には「球」に対する大きな関心と不安があった。「あやまちて切りしロザリオ転がりし玉のひとつひとつ皆薔薇」を見る目は、「あぢさゐの花」と「美しき球」を結びつけたまなざしと共通している。