御諸つく三輪神蛇の男神なまのたまごは置かれてゐたり

廣庭由利子『黒耶悉茗(じゃすまんのわーる)』(2014年)

 「御諸(みもろ)つく」は、「三輪」の枕詞。三輪神社を訪れたら、神贄として卵が捧げてあったのだろう。三輪山の祭神は、大物主神でその使いが白蛇である。玉依姫の臥所を夜な夜な訪れた男神は、三輪の蛇神であったという伝説を踏まえた一首。作者の歌は、触覚的なエロスを自然の事物に感じ取り、また自ら投影するところに特徴がある。白いたまごは、清浄であると同時に、神に差し出された捧げものとしての、供犠のいたみを陰翳としてまとっている。幾分かは、作者自身の心身というものも、神への供犠として、ともに差し出されているのだ。神贄を見るという事は、そういうことである

 

春暁は眠りの足らぬ(じゆう)となり湿るからだでぬつと現る

 

この歌は、「春暁」の一時を「眠りの足らぬ獣」として擬人化している。「湿るからだ」を持つ者は、作者自身のようでもあり、また三輪祭神の恋人のようでもある。ここでは、現実の肉体をまとった季節というものの生々しさを表現しているのだが、そのように季節を感じ取る作者の感性には、いくぶんか巫女の感神性と通い合うところがあるだろう。もう一首あげると、

 

苔衣まとひ浪花の御不動はしたたる水に毛物めきたり

 

この歌も「したたる水に毛物(けもの)め」いている「御不動」は、聖性を帯びた根源的な「性をもつもの」である。

 

シチリアの塩ひとつまみ半熟の黄身にふりかけ朝のアリア

 

巻末の解説をみると、作者は著書もある料理研究家である。私の親友にもイタリアン好きがいるけれども、朝食はだいたいこんな感じのようだ。私は、湿潤な日本の風土のなかでは、シチリアの塩も湿気を帯びてくるのではないかと思うのだが、そこは「朝(あした)のアリア」で吹き飛ばす。これは、朝の陽光のことでも、音楽をかけているのでも、どっちでもいい。暑くなってきましたが、読者の皆様、この蒸し暑い梅雨の時期を乗り切りましょう。