魚村 晋太郎


水に乗る黄葉の影よろこびは遠まはりして膝へ寄り来つ

横山未来子『花の線画』(2007年)

落葉樹の葉には、紅くなるものと黄色くなるものがある。
楓(かえで)は紅くなるものの代表で、黄色くなるものの代表といえば鴨脚樹(いちょう)だろうか。
紅い色は、葉にたまったでんぷんが分解されてできる糖と、老化した葉緑体が分解されてできたアミノ酸から合成される、アントシアンという色素の色。
アントシアンを合成する酵素をもたない葉は、葉緑体が分解されたあと、葉にもともとふくまれていたカロチノイドという色素が目立つために黄色く色づいて見える。

一首の黄葉の影とは、水面に浮かぶ黄色い葉のいろやかたちのことだろうか。
それとも、その葉が水底におとす繊細な影絵のことだろうか。
読者はその両方を目にうかべて、深くはない水路をながれる水のひんやりとすんだ様子や、そこにさす晩秋の陽差しを感じることができる。

木木の葉は春に芽吹き、初夏の風にそよぎ、盛夏のひかりをあびてさかんにしげる。
そんな季節を経て、あざやかな黄色に色づいた葉がいちまい、秋の水にはこばれて足もとにながれて来た。
主人公のよろこびも、その黄色い葉のように、遠まわりをしていまやっと訪れる。
膝のうえにおかれた恋人のてのひら。膝によりそう恋人の膝。
はじめは、一首から、そんなぬくもりを感じた。
或いは、届いたのは、何かの知らせであったり、誰かの手紙であったりするのかも知れない。
通知や手紙であったとしても、膝へ寄り来つ、という表現からは、あたたかな体温で主人公がそのよろこびを迎えていることが感じられる。

遠まわり、という言葉はいいな、と思う。
そして、遠まわりして来るものをおだやかな気持ちで待ったり、遠まわりをたのしんだりできるひとは、だんだん少なくなってゆくような気もする。
   いくつかの見えぬ手を経てわれの手に風の傷もつ梨は来りぬ
目の前の結果だけでなく、そこにいたるまでの長い時のすぎゆきを慈しむまなざし。
同じ歌集の一首からも、そんなぬくもりのまなざしが感じられる。