小さき粒子の集まりに過ぎぬものなれど写真は語るまことらしきもの

       森井マスミ『まるで世界の終りみたいな』(2015年)

 

詞書に「マッカーサーとの会見写真は三度撮り直された」とある。1945年9月に昭和天皇とマッカーサーが会見した際の写真について詠まれた一首なのだ。

「撮り直し」は、一枚目ではマ氏が目をつぶり、二枚目では天皇の口が結ばれていなかったことによるという。この有名な写真は、二人の身長差、ポケットに手を突っ込んだマ氏のリラックスした表情と直立不動の天皇の差などから、見る者に敗戦の事実を突きつけた。写真を掲載した9月29日付けの朝刊各紙は、「不敬」にあたるとして発禁処分となった。戦後もなお、新聞の検閲や統制に関わる「新聞紙法」が生きていたのだ。GHQはもちろんのこと、発禁処分の取り消しを命じた。

そんな事柄をいろいろ考えると、結句の「まことらしきもの」は誠に複雑な苦みを含んでいる。ちょっとしたアングルやタイミングで、撮られたものは全く様相を変える。何ら加工を施さなくても、写真というのはそもそも「まこと」に限りなく近いけれども、決して「まこと」ではない。同様に、史実として語られることもまた、語り手の立場や思想によって如何ようにも変わり、どんな記述も「まこと」ではない。

「小さな粒子」は銀塩粒子を指すのだが、何だか歴史のなかにおける個々人の小ささのようにも読める。歌集には、今日の世界に対する虚無感、喪失感があふれていて、読むほどに「世界の終り」を実感させられる。