松村 由利子


光ふるさなか石原吉郎の断念を思ひ冬の草ふむ

黒瀬珂瀾『空庭』(2009年)

 

石原吉郎の詩を読み解くうえで、「断念」というのは最も重要なキーワードの一つである。最初の詩集『サンチョ・パンサの帰郷』の巻頭に置かれた「位置」について、石原はエッセイで、「位置」という発想が決定的になった延長線上に「断念」という発想が浮かび上がってきた、と述懐している。それは、偶々そこに在ったこと――例えば、彼がロシア語を学んだこと、シベリアに抑留されたことなど、偶発的な自らの「位置」を受容せざるを得ない「断念」ではなかっただろうか。

「私自身がシベリアに拘禁された体験が、自分がそこにいるよりほかに、どうしようもなかったという重苦しさを、帰国後に、かろうじて詩によって救おうとした」と石原は書いている。

歌の作者は、冬野を歩みつつ、石原の「断念」を思う。夏に繁茂した草々はほとんど枯れ、侘しい情景である。「草」は青人草、民草を連想させ、それを「ふむ」ことの残酷さも思わせるのだが、「光ふるさなか」には何か希望のようなものが感じられる。

何らかの「断念」を経験しない人は稀である。人生で選ぶことのできるものは、案外と少ない。どこかの時点で思いを断ち切って、現実に向かい合わなければならないのだ。人間のもつ深い淵を覗き込んでしまった石原に心を寄せつつ、作者はどこまでも冬野を歩いてゆく。