若竹にまたもや先を越されたり私が私を脱ぎたきときを

春日真木子『水の夢』(2015年、角川学芸出版)

多くの歌人は自分の作品を打破したいと思っている。長く短歌を作っていると自分の作品が自己模倣に陥っていることに気付くからである。新しい感覚、新しい素材、新しいレットリックを常に求めている。一旦出来上った自分を破壊することは辛い。しかし、そこに安住していたのでは、進歩が望めない。誰もが自分を脱ぎたいと思っている。

作者は歌集の略歴に大正15年生まれとあるから、今年で90歳になられるはずである。足が多少ご不自由なようだが、精神は若々しい。90歳にしてなおも自己を脱却したいと思っているのである。昭和30年「水甕」入会とあるから、その年から作歌を始めたとしても、既に60年以上短歌を作っているにもかかわらずにである。

その作者が自己を脱却して、新たな歌境を模索しようとしている時に、ふと外を見ると、藪の筍が若竹に成長して自らその皮を落としている光景を目にする。自ら私を脱いで成長している若竹を目の当たりにするのである。そして、自分を脱ぐことにおいて、自分は若竹に先を越されたことに愕然とするのである。 作者が率いる結社「水甕」は創刊百年を超えた。実年齢にかかわりなく精神的に若々しい作者が率いるからこそ、結社も古びないのであろう。

新しき発心のあれ水甕の百年の水汲みあげにつつ

ゆるやかに生を積むべしももいろのヒマラヤ岩塩わが前に照る

ひと椀の朝の味噌汁賽の目の豆腐の白き力を掬ふ