よそゆきの母としばらくぶりに会ふ黒いテリアの散らばるブラウス

浦河奈々『サフランと釣鐘』(平成25年、短歌研究社)

 娘にとって見慣れた母というのは、昔なら白い割烹着を、現代であれば少しくたびれた長いスカートにエプロンを着けた姿であろうか。改まった姿というのは、せいぜい、授業参観の時ぐらいしか印象にないのであろう。それが何かの時に外で会った。例えば、母親が同窓会の帰りに、娘が偶々近くに勤めていることを思い出して、電話で呼び出したというような状況が想定されよう。

 いずれによ、作者は外で久しぶりの余所行き姿の母とあった。場所は、多分少しお洒落なカフェのような気がする。作者の方も嬉しいのであろうが、母親の方がもっとうきうきしているようだ。生き生きと楽しそうに他愛のない近所の噂などをしているのかも知れない。その時に作者は母親の話の内容よりも母親の来ているブラウスが気になる。それが黒いテリアが散らばっている模様のブラウスだという。テリアは足の短い小型犬で、愛玩犬として飼われることが多いようだ。余談だが、あの足の短さは、人間が穴の中に棲む小獣などを狩るために交配して人為的に作ったものだとう。そのテリアが散らばっているブラウスを着ているというから、今も少女性を持っている母のような気がする。

 久しぶりに外で娘とあって華やいでいる母と、それに対して少しばかり冷静に母の服装を観察している娘との落差がとても印象的である。歌集の中に「軒先に銀の蜘蛛の巣ゆれてをり短歌のもろもろ親に語らず」という作品もあるが、これも母と娘の意識の落差を感じさせる。

 なお、この後に作者は母を亡くした。

   母のこと詠ふそのときその母は亡き人ならむ詠ふは罪か

   この夏はわれに死にゆく母ありてわが胸元のじんましん真つ赤

   わが名もう母に呼ばるることはなし洗濯機まはしてひとしきり泣く