勤勉な時計と手帳は仕舞いましょう静かにそそぐカモミールティー

岸原さや『声、あるいは音のような』(2013年、書肆侃侃房)

 考えてみると、我々現代人は実に多くの物に管理されている。例えば時間である。江戸時代の時間は、日の出のおよそ30分前を「明け六つ」、日没後およそ30分後を「暮れ六つ」として、その間をそれぞれ6等分して「一刻(いっとき)」としていた。日の出、日没は季節によって変わるから、「一刻」の長さも変わってくる。いわゆる「不定時法」である。なんともおおらかな時間管理だと思うが、それで大きな支障はなかったのであろう。江戸時代までは農業を基本とする社会であったので、日の出、日没という目に見える空の変化に合わせて農作業を行っていたためだと思う。しかし、現代では、季節にかかわりなく「一時間」の長さは決められている。冬の午前六時はまだ暗いが、夏の午前六時はもう明るい。朝六時に家を出る人は、その時間が明るい時だったり、暗い時だったりする。我々はそんなものだと思い込んでいるが、考えてみるととても不自然な生活だと思う。

 そして、その不自然な生活を管理するもう一つのツールが手帳である。最近では、パソコンやスマホでスケジュールを管理している人が多いようだが、依然として昔ながらの紙の手帳で管理している人も少なくはない。私もその一人で、手帳を紛失すると、自分は明日何処へ行かなければならないのか判らなくて、途方に暮れてしまう。パソコンやスマホで管理して同期させれば紛失のリスクは軽減されることは分かっているが、やはり手書きの手帳の味は捨てがたい。

 さて、提出歌であるが、作者はその時計と手帳と仕舞いましょう、と言っている。つまり、もう時間や予定に管理される生活はまっぴらだと言っているのである。「勤勉な」と言っているところに強い反発と皮肉が感じられる。それは作者だけの思いではないだろう。大半の現代人が思っていることでもある。いわば、そのような現代人の苦悩を作者は代弁しているようにも思える。そして作者が飲むのはカモミールティーである。カモミールはキク科の一年草であるが、その乾燥花に湯を注いだカモミールティーは安眠、リラックス、拾う回復などの効果のあるハーブティーとして愛用されている。

 何者かに管理される人生を捨て、穏やかな自然の癒しに身を委ねようとする作者の気持ちは貴重なものである。多くの現代人が喪った人間性の回復を希求していると言えるであろう。そして、この歌集を読むと、この間、作者が歌の仲間を失い、母を失っていることを知る。人一倍繊細な感覚の持ち主である作者の深い悲しみと苦悩の中から紡ぎ出された、心からの人間性回復の叫びなのだとも思う。

    美しい音符さらさら描くように医師がカルテに記す家系図

    いつのまに失くしたろうか朝に知るうすむらさきの傘の不在を

    ひっそりとなにかが終わり夜があける名づけられない世界を生きる