久野はすみ『シネマ・ルナティック』
(2013年、砂子屋書房)
最後の〈正しさ〉を空欄にして、どんなことばが入るでしょうと問うたとき、正しさという語を答える人はあまりいない気がします。
語り手はなにをもって〈わたし〉の不在を正しさと呼ぶのでしょう。
1)雲梯の上の〈わたし〉が校庭にも存在することは物理的にありえない。
2)校庭に〈わたし〉がいなくても、それなりに過ぎてゆくのが学校生活であり、世間・世界というものである。
3)裏返せば、雲梯の上に〈わたし〉が存在する正しさを述べている。
いわば1)は客観的な認識、2)はネガティブな心理、3)はポジティブな心理。それらが干渉しあって〈正しさ〉という語が出てきたと考えられます。2)だけなら「寂しさ」「つまらなさ」、3)だけなら「確かさ」「誇らしさ」とも言えるでしょうから。
息継ぎのうまくできないわたしだけ取り残されてさびしいプール
いなくてもいいわれなれば点滴を受けている間に舞台は終わる
後者は大人になり、劇団で働いているときの歌で〈急性胃潰瘍〉という詞書がありますが、子どものころの感情がよみがえっています。体調不良時にありがちなことです。すると雲梯の歌も2)の疎外感が優っているでしょうか。
ただ、雲梯という遊具、校庭の隅にあるものであっても、その〈雲〉の字にはどこか開放感があり、孤独をたのしむ気持ちもありそうです。
人に歌をつくらせるのはさびしさそのものより、さびしさとたのしさの汽水域みたいな部分かな、と思いました。