我にまだ死刑を肯(うべな)う心あり窓に当たりて窓伝う雨

吉川宏志『鳥の見しもの』(平成28年、本阿弥書店)

 死刑制度についてはどの社会でも賛否両論がある。存続論者は犯罪抑止効果(ただし、それを疑問視する意見もある)や、遺族感情を強調する。一方、否定論者は、冤罪の可能性や人権などを主張する。社会はその両論の上に立って、存続か廃止かを選択している。日本は死刑制度を存続させているが、世界には廃止している国も少なくはない。アメリカでは州によって違う(この点はいかにもアメリカらしい)。

 この作品の表現からは、作者は一応反対の立場と受け取られる。しかし、作者は一方で、自分の中には死刑を肯定する気持ちもあるのだと告白する。死刑制度の賛否両論はは、社会の中にあるが、実は個人の中にもあるのだ。

 死刑制度からは少し離れるが、企業の不祥事などが報じられると、その企業を非難する作品が新聞歌壇などにどっと溢れる。確かに社会人としては、社会正義を主張することはしごく全うなこととは思う。しかし、自分がもしその企業の担当者だったらどうしただろうかという想定もあっていいだろう。発覚する可能性が99.99%ないと確信したら、その不祥事に関与しようという衝動は多くのサラリーマンが経験するであろう。それを思い止まらせるのは、人間としての良心と残り0.01%の発覚のリスクである。そして、ごくごく少数の者が一線を越えてしまう。どちらにせよ、その時の担当者の胸中には激しい葛藤があったはずである。短歌で歌うなら、公式的な社会正義よりも、そのような人間としての葛藤をこそ歌いたいと思う。

 引用歌に戻れば、作者の心の中には死刑制度に反対する気持ちと肯定する気持ちの両方が共存している。もちろん前者が比重としては大きいのだろうが、後者の気持ちも否定できないのだ。そのようなアンビバレンツな感情が、下句の、際限のない徒労のような、それでいて限りなく寂しく美しい描写と見事に呼応している。

    明日はまた仕事があるので帰ります 電気に満ちた街に帰ります

    権力はまざまざと酷(むご)くなりゆくを日なたの雀でしかない私は

    鬼のなか棲んでいるムは私かも知れず 畳に夕日が射せり