ゆふぞらを身ひとつで行く鳥たちは陽の黄金(わうごん)につつまれて飛ぶ

小島ゆかり『馬上』(平成28年、現代短歌社)

 夕方、森の巣へ帰る鳥であろうか。夕陽に照らされながら飛んでいく。それを見ながら作者は、鳥が「身ひとつ」であることを思った。洋服も帽子も靴も身に着けていない。それは当然であるが、作者はさらに、あの鳥たちには、家族はあっても、親戚や隣人はいないのだろう。愛憎、嫉妬のような人間的な感情も、富、虚栄、名誉のような社会的欲望もないのだろうと思う。作者は、そのようなものも含めて「身ひとつ」と思ったのだろう。持っているのは、単純な生存と種の存続に関する本能だけである。そのような余計な物を一切身に着けていない鳥が夕陽に照らされて黄金色に輝いているのだ。下句の美しい表現には幸福感が満ちており、作者の羨望の感情も少しばかり感じられる。

 その裏返しとして、作者は、人間は決して「身ひとつ」では生きられないことを痛感している。春夏秋冬に合わせて服を変え、またTPOに応じても服を変え、帽子や手袋や靴のようなものも身につけなければならない。そればかりではない。家族や隣人、上司同僚には挨拶しなければならない。地域の自治会のゴミの出し方のルールは守らなければならない。親が病めば看病をし、不幸にして亡くなれば葬儀、埋葬をしてあの世へ送り出さなければならない。生活していれば電気を使い、悲惨な原発事故とも向き合わなければならない。所得があれば納税をしなければならない。そのような実に気に遠くなるような繋がりのなかで生きているのが人間なのだ。それを社会というのだろうが、ある人にとっては「束縛」となることもあるのかも知れない。

 夕空を身ひとつで行く鳥を見ながら、作者は鳥と引き比べて人間の身を思っている。特に、作者はこの歌集の間に父を介護し、最後を見送った。また、敬愛してやまなかったであろう宮英子さんをも失った。しかし、悲しいことだけではない。娘たちの成長と自立を見守ることはうれしいことであったであろう。地方の美しい自然を見ることは、たとえそれが短歌の仕事の旅であったとしても楽しいことだったであろう。人生は悲喜こもごもで成り立っているのだ。そう思った時に、作者は鳥の生の簡浄さを羨む一方で、鳥たちに比べて喜びごとも多い人間の生を少し嬉しく誇らしげに思ったのかも知れない。

     われ無しで子らはもう生きわれ無しでもう生きられず老いたる父母は

     街はもうポインセチアのころとなり生老病死みな火と思ふ

     リードにてつながる犬と人見れば人間である自分がいやだ