これが老残自然のさまか今の今己が事のみ関心にして

清水房雄『残吟抄』(2013年、不識書院)

 清水房雄は大正4年の生まれとあるから、今年で101歳になられるはずである。「アララギ」の先輩であった土屋文明も100歳まで生きたが、清水は既に文明の年齢を越えた。もちろん、現歌壇では最高齢であり、現在も歌を作り続けていることは驚くばかりである。

 日本人が総体的に高齢化しつつあり、当然、歌人もその例外ではない。百歳の歌をどう作るかというのは短歌の新しいテーマと言ってもいいかも知れない。そう思ったときに、清水の作品は一つのヒントを与えてくれるのではないだろうか。桑原正紀の最新歌集『花西行』にこのような作品があった。「「老残」と自(し)を詠む清水房雄氏の梅の古木のやうな佳きうた」。桑原は掲出歌を念頭に置いていたのかも知れない。

 掲出歌、自分が歌にする関心事は自分の事だけだと言い、それが老い存(ながら)えた者の自然な姿なのだという。社会的なことも歌ってはいるのだが、確かに自分に関する作品が圧倒的に多いことは事実である。しかし、それがまさに「老残自然のさま」なのであろうから、そのことは十分に肯える。「老残」という言葉には淋しく惨めな印象があるが、清水はこの言葉をむしろ開き直って使っていることが、逆に痛快でさえある。こと清水に限って言えば、もう歌の内容よりも、歌を作り続けているということだけに意味があるのでないだろうか。そうは思っても、やはり清水の歌には味がある。上手いということではなく、味があるということである。桑原が「古木のやうな」と歌ったように、派手ではないが、武骨であり、存在感がある。

 歌集「後記」には文章の代わりに、ただ次のような作品が書かれているだけであることも潔いと思う。

     ”第十七歌集四一〇首。「これぞといふ一首も無しに終るのか七十余年歌つくり来て」

   わが歌もやうやく追憶を辿るのみ遂には避け得ぬ老残のはて

   仕方なく歌詠み続けし七十余年外に為すべき事とても無く

   何時何処でどんなかたちで終るのかそれのみ今の関心にして