渡辺松男『<空き部屋>』(ながらみ書房:2007年)
(☜3月22日(水)「憎むということ (8)」より続く)
◆ 憎むということ (9)
――ひとを憎むことほど容易いことはない、と言われて少し立ち止まり、これまで紹介してきた歌と、自分のこれまでのことを振り返ってみる。人を憎む歌、犬や東京を憎む歌とさまざまな歌があった。私自身はひとを憎むようなことはほとんど無かったように思うが、一定の条件さえ揃えば、ためらうことなく憎んだようにも思える。
何度もひとを憎く思ったことがあったのであろう。あるいは、今この瞬間にもひとを憎んでいるのかもしれない。箴言のような上の句の、その半分ぐらいは作者自身に向けられた言葉に違いない。松の尖った葉が落ちてくる下を歩くのは、なんだか刺さりそうで痛そうだ。だからこそ、簡単にひとを憎んでしまう自分自身への罰として歩む。
松の葉のふるえこまかき昼さがり手を洗わざる不安にいたり 『寒気氾濫』
「手を洗っていない。手を洗わなければ」という意識に強く苛まれている一首であるが、掲出歌と同じく松の葉が登場している点が興味深い。渡辺松男の短歌には特に樹木が多く登場するが、松(の葉)は苛みの意識との繋がりがありそうだ。
掲出歌に戻ろう。しかしながら、ひとを容易く憎んでしまう自分に気付けることは大きいはずだ。ひとを憎むことが必ずしも悪いことではないのかもしれない。それでも、憎しみを客観視できる力はきっと、その対極に位置する愛の存在を見つける力だ。
いつかくだらぬことでいつぱい笑はうといひながらそのいつかはあらず 『蝶』
亡き妻との思い出を詠んだ一首である。その悲しさに、胸が締め付けられるように苦しくなる。前回登場した柳宣宏は渡辺松男のこの歌を引き、同じく一首には悲しみがこめられているとしたうえで、次のように述べている。
人は、大きな成功を収めるために、人を愛するのではありません。何かをしてもらったり、何かをしてあげなくてはならないのが、愛ではありません。居てほしい。居るだけでいいんだよ。この歌から、ぼくはそのような声を聞きます。
『短歌エッセイ カジン先生の時間』柳宣宏(みくに出版:2013)
ひとが容易く憎しみに身を染められることに対して、ひとを愛することは極めて簡潔なものであるがゆえに、得難い奇蹟のように感じられる。
憎む歌を辿りながら、随分遠くまできたようだ。
(〆「憎むということ」おわり)