衰ふるわが眼のために咲きそむるミモザの黄なる大き花房

篠弘『日日炎炎』(2014年・砂子屋書房)

 

春は黄色い花から咲きだすと、知人が言っていた。言われてみれば、連翹、水仙それにミモザ。くすんだ色の街角があたり一面パアーッと明るくなり、いよいよ春だと、華やいだ気分になる。表通りから少し入った遊歩道に、一本のミモザの木があり、毎年、春先に、いちはやく黄色い花をつける。残念ながら今年は満開を見逃してしまった。今日、その前を通ると、もう新しい細かいぎざぎざの新芽が出ていた。ミモザはギンヨウアカシアともいい、マメ科の常緑高木。3月の頃、細かい黄色の花をつける。満開になると、樹木全体が黄色の花に覆われる。『日日炎炎』の作者の庭にはミモザの木があるらしく、何首かでてくるが、わたしはこの歌がとても好きだ。

 

作者は、ミモザの花にみずみずしい明るさを見ている。実際の明るさに加えて、「大き花房」の黄は「衰ふるわが眼のため」という。自身を鼓舞する気持ちがうかがえる。また「衰え」ゆえに発見された、至福の時間をゆっくりと味わうようでもある。ミモザがこの世の賜物のように思えてくる。

 

驟雨ふるはじめに埃のにほひして古書店街は洗はれゆけり

帰りゆく人らにまじり高架路のうへに揚がらむ花火を待てり

このわれがまだ挑みうる思ひもて槍投げをする角度を聴けり

 

高齢化社会と言われて久しく、高齢が珍しくなくなったが、老いの体力気力の衰えは誰しも身に染みて感じるところだろう。しかし、若く活力に満ちていたときには気付かなかった豊かな経験もある。「衰え」を豊かにするかどうかは、その人の生き方次第ということだ。