ひらがなで名を呼ばれたりはつなつの朝のひかりのテーブル越しに

錦見映理子『ガーデニア・ガーデン』(本阿弥書店:2003年)


(☜4月19日(水)「人から見た自分 (11)」より続く)

 

◆ 人から見た自分 (12)

 

相手は恋人だろうか。初夏の朝をともに過ごす関係のなかで、相手から名前を呼ばれる。その響きには優しさが溢れていて、まるでひらがなで呼ばれたかのように感じる――
 

夏の朝の清らかな光のなかで、相手との関係がさらに深まっていることに気付く美しい一首だ。やはり「ひらがなで名を呼ばれ」ると暗喩で言い切った点がすがすがしい。短歌は多くの場合、印刷されたものなどを目で読みつつ、こころのなかで音を響かせる。「ひらがな」という字(視覚情報)を「ひらがな」とこころのなかで発音(音声情報)する。読者のなかでおこる自然なこの変換が、一首の例えを自然なものとしてすんなりと受け入れさせる。
 

思えば、NHK短歌における錦見の連載タイトルは「えりこ日記」とひらがなであった。「映理子日記」「エリコ日記」とバリエーションはさまざまに考えられるが、「映理子日記」では「紫式部日記」「讃岐典侍日記」と同じように、どろっとしたものがでてきそうで身構えてしまう。「エリコ日記」では、前回の藤原龍一郎の歌の「フジワラちゃん」に通じるどうにも気取った感じが気になってしまうかもしれない。文字表記ひとつで、言葉の印象は大きく変わる。
 

「テーブル越し」というさりげない言葉も、関係のさらなる一線を越えていくことを思わせて、一首を膨らませていく働きがある。「ひらがな」に続くように「はつなつ」「ひかり」がひらがなで書かれていることと合わせて、すっと読めるように丁寧に磨かれている。
 

余談ながら、ある歌とペアで覚えてしまう歌があるものである。私の場合、掲出歌を思い出すとこちらの歌も一緒に思い出す。
 

近眼のエリコ(あだ名はマヨネーズ)今日ものそのそ付いてくるなり  石川美南『砂の降る教室』

 

一首は、子供時代を場面にしたものである。虫取りをしても何をしてもついてくる子の「マヨネーズ」というあだ名に眼が奪われるが、本来はなんらかの漢字表記であろう名前が「エリコ」とカタカナ書きされている点に、単に匿名にするためではない棘のようなものが感じられて面白い。
 

次回は、そんな石川美南の歌を紹介したい。
 
 

(☞次回、4月24日(月)「人から見た自分 (13)」へと続く)