光森裕樹


(きのこ)たちの月見の宴に招かれぬほのかに毒を持つものとして

石川美南『砂の降る教室』(風媒社:2003年)


(☜4月21日(金)「人から見た自分 (12)」より続く)

 

◆ 人から見た自分 (13)

 

月の美しい夜に、茸たちが集まる宴に招かれる。どうやら茸たちにとって、私は仲間に見えるようだ――
 

月にぼんやりと耀く茸たちの様子が幻想的な一首だ。「ナーンダ、この人間も毒を持っているよ」という彼ら/彼女らのささやき声が聞こえてくる。
 

「毒を持つ」というのは、具体的にはどういうことを意味しているのだろうか。「毒のあることを言ってしまう」ということから、もっと広い意味で周りの人を苦しめてしまうことまで考えられる。いずれにせよ、人間社会のなかでは生きづらさをうむ「毒」が、茸社会のなかではれっきとした身分証明となる。
 

茸同士がお互いの毒で傷つけ合うことはない。あくまでも、人間たちに食べられないように身につけた術である。ならば、自らが持つ「毒」をほんのすこし誇ってもいいように思えてくる。
 

石川美南はかつて、茸たちの宴ではないが、日本キノコ協会によるムック「きのこ」(2007-9)に招かれて連作「茸狩りが嫌ひだつた人に」を寄せている。何首か引いてみたい。
 

森は秋 どこもかしこも茸にて君は心底嫌さうである
うかうかと横切るなかれ誇り高きナギナタタケの列なす前を
菌輪を足で散らした罰として君は茸に取り囲まれる
間違へたらもう後がない第五問・ツルタケの毒成分ナーンダ

 

茸狩りが好きではない恋人を、茸だらけの山奥に置き去りにするという、笑いもしびれも止まらない毒の利いた一連である。
 

茸たちに囲まれて茸クイズ責めに合う「君」を、石川は恋人の立場で見守っているのか、それとも茸の一員として見ているのか。そう考えるとき、掲出歌の「ほのかに毒を」の「ほのか」あたりが疑わしくなってくる。
 

果たして、五問目に間違えたらどうなってしまうのだろうか。茸の一員になってしまうくらいならまだましで、そのツルタケを…と想像するだけで恐ろしい。
 

――ツルタケの毒成分はナーンダ。
 

その問いにいつでも答えられるように、いそいそとインターネットで調べてみる。
 
 

(☞次回、4月26日(水)「人から見た自分 (14)」へと続く)