江戸雪『椿夜』(砂子屋書房:2001年)
(☜8月9日(水)「かすかに怖い (14)」より続く)
かすかに怖い (15)
私に似た、私の子ども。似ているけれど、確かな他者である。まだ幼すぎて何にも考えていそうにないのに、子どもが突然空の彼方を指さす。何が見えているのか、何を感じているのか分からない、私に似た存在が、ふとこわくなる――
自らの分身とも言える子どもであるが、それだけに最も近い他者ともみなせるだろう。自分に似ている存在が、何を考えているかわからないという感覚が思考に混乱をもたらす。自らよりもきっとずっと生きていく存在の前で、自らの存在の意味があやふやになる。
『椿夜』には子どもの歌、とくに子どもを抱きかかえている(抱きかかえようとしている)歌が多い。
いくつか引いてみたい。
子を抱いてあるいてあるいている我を呼び止める花、酔芙蓉なり細すぎる子を抱ききれずわが腕の枯れゆくさまのさびしさは風子を抱き われには待っていてくれるひとがあるのと小さく云えり子を抱いて歩くこの道ぜったいに触れることないノブばかりある
まだ、ひとりでどこにでも行けるわけではない、という子どもの状況は、そのまま我の状況に繋がる。子どもを置いてはどこにも行けない、かと言って、連れてどこにでも行けるわけではない。
そんなとき、人を受け入れるためのドアのノブすべてが、私を拒む存在としてそこにある。重荷のような子を抱いて、ときおり空の彼方を指さすこどもを抱いて、私はどこかに行かねばならない――
(☞次回、8月14日(月)「かすかに怖い (16)」へと続く)