岩尾 淳子


黙祷の一分間をさしはさみ茫たる午前午後となりゆく

 

         竹山広  『千日千夜』「竹山広全歌集」ながらみ書房 2014年

 

今年は戦後75年目。そして8月9日は長崎の原爆記念日。いつまでも、この惨禍を忘れないために平和式典では全員で犠牲者に捧げる黙祷が行われる。参列者のなかでは、その関与の重さによって黙祷の時間の濃淡はさまざまだろう。被爆者にとっては世界の裂け目に立ち会う時間といえるのかもしれない。自らの生死を分けることになった苛酷な被爆体験と、静かに向き合う時間でもあろう。でもこの歌では、そんな他者の思惑を差し入れようのないある種の無力感が漂っているようにも思う。黙祷の時間が過ぎれば、ただの日常の時間へなだれ込むように帰ってゆくしかない。黙祷が毎年行われる慣習となるなかでふっとした空虚な感じがよぎっている。自分が取り巻かれている世界や、存在そのものに漠然とした懐疑がわだかまっているような一首。

 

不条理な戦争によって落とされた原爆によって死んでいった無辜の命は深く悼まれてしかるべきだろう。しかし,同じ場所で、同じ体験をしながら、ほんの偶然によって生き残ったものたちがここにいる。そのものたちにも、死はありきたりな形で必ず訪れてくる。死ぬまで続く時間は生き残ったものには苛酷な過去を負わされたまま、何事もなかったように続くのかもしれない。居合せた人々にとって、原爆投下の時刻である11時2分とはいったい何なのか、長く問い返されたであろう。

 

逃げても逃げてもそこに居たりし少年にゆきて平伏さむ時し近づく

忘るべからざることども忘れつぎやうやくわずかしづまりゆかむ

 

同じ連にあるこの2首にも、あとに残された時間をどのように生きることが可能なのか、あるいは不可能なのかという思惟が続いている。

次の連作は、平成7年に起きた神戸の震災によせて詠まれている。

 

居合せし居合せざりしことつひに天運にして居合はせし一夜

炎去りゆきし瓦礫を人掘れりいのち得てすることのはじめに

 

ここには生きてゆくうえでは避けられない運命や、そのなかでの人の営みの根源に届く深い洞察がある。今も、世界のどこかで様々な惨事が起きている。現場では天運にして、明暗をわけた人々の苦悩が果てることはない。

その天運に翻弄される存在を嘆くのではなく、そのままに引き受ける醒めた認識には強靭な精神性がある。そこにはなんども問い返された気の遠くなるような絶望を感じる。

そして、焼け跡で瓦礫を掘る人の行為にいのちの尊厳をみる視線には透徹したものがある。何故、命を得た人は瓦礫を掘るのか、人をさがすのか。まるでイコンのような光のさす光景。哀しみ、そして美しさに震える思いがした。