工藤吉生『世界で一番すばらしい俺』短歌研究社 2020年
今は暑い盛りだけど、遠からず秋がやってくる。詩歌には欠かせない秋という季節。秋の到来を風の音に感じたのは古人。ここでは、秋の予感のなかに床屋の椅子が登場するのが意外でおもしろい。床屋の椅子といえば、黒い革張りでリクライニングの装置もあるから、椅子と言うには少し大仰な感じがする。
その椅子に通りから陽ざしが差し込んでいたのだろうか。なんだか懐かしい感じのする床屋の椅子と、秋の気配が交差して、ちいさな物語の始まりのよう。〈重大な秘密〉という言い方に少年のような遊び心と、モダニズム短歌のようなノスタルジアが響き合う一首かと思う。
捨ててあるタイヤのなかに雨水が住んでてわりとちゃんとしている
空き缶に溜まった雨水を詠む歌にはよく出会う気がするが、捨ててあるタイヤに溜まった水へ関心がゆくのは初めて。そして、たまり水に青空なんかを映すのではなくて、その雨水はタイヤに住んでいて「わりとちゃんとしている」という。この感受のしかたの柔らかさにはっと驚かされた。タイヤにたまった僅かな雨水と作者自身とが等身大に存在している。ここには、世界を高みから見るのではなく、ものに寄り添ってゆくあたたかな視点がある。
こんな世界の落としたかけらを見逃さずに反応して、口語のしたしみをこめたナイーブな表現に包み込んでいる。先の歌の〈重大な秘密〉というのは、だれしもが見逃してしまう貧しいもの、ささやかなものの存在感をいうような気がする。そこには床屋の椅子に残っているような暖かな体温のある感覚が行き届いている。
何をしても間違っているような夜に縄跳びの音、それも二重跳び
気分は内向しているけれど、どこか突き抜けた感じがするのは、こころがいつも外界をきちんと写し取っているせいかとも思う。繰り返し自虐しながらも、表現が陰鬱ではないのは内面の圧を適度に逃がす空気感、あるいは距離感がとられているからだろうか。あるいは口語体をうまくからだに沿わせた力の抜き方か。この歌も、自分を低く定置させながら、耳はちゃんと外の規則正しい縄跳びの音を聞いている。夜の空気に寂しさと憧れが同時に流露しているようで、どこか優しい美しさを感じるのは見当違いだろうか。
月ならばたまに見ることあるんだよ月を見つめる自分が良くて