久我 田鶴子


何切ると云ふにあらねど折折は光に見入るカッターナイフ

小笠原和幸 『黄昏ビール』 ながらみ書房 2020年

 

一首を口語に換えると、〈何を切るというわけではないが、その時々は光に見入るのだ、カッターナイフの。〉となろうか。

これは、ちょっと怖い。切るという目的もなく、人が刃物の光に見入るのは、どういうときなんだろう。これがカッターナイフではなくて、日本刀だったら、むしろ光に見入る感覚は分かるような気がするが、カッターナイフでは戸惑ってしまう。惚れ惚れと見入るような種類のものではないし、そもそも「光」と言うほどの光りかたをするとも思えない。机の上や引き出しの中にある身近な刃物という点では、カッターナイフの刃先を見るということはあるだろう。だが、刃先を見るのと、カッターナイフの光に見入るのとでは、だいぶ違う。カッターナイフの光に見入るときの作者の心境が知りたくなる。

「折折は」が曲者くせものだ。「折折に」ならば、動作のある時を指定しているが、「折折は」って何だ? 人には言えない何かを心の内に持っているかのような含みがある。そういう行為をする自分自身をたのしんでいるようでもある。

 

己が身の脂の付きし眼鏡にて今日は眩む秋の落日

 

「眩む」の読みは、「めくらむ」。目がくらむのである。

この歌を口語にすると、〈自分の身体の脂がついた(汚れた)眼鏡で(見たのに、それでも)今日は目がくらむ、秋の落日であることよ。〉か。日々の生活の中で、汚れにまみれた眼鏡。そんなもので見たにもかかわらず、今日の秋の落日は格別の輝きで、目がくらむほどだったよと言うのだ。

「眼鏡にて」が曲者。「眼鏡にて今日は眩む」という表現には、ストレートには読めないところがある。省略と言葉の矯め。そこに面白い味わいが生まれる。

一筋縄ではいかない作者である。