大松 達知


茸のごと朽ちざりしゆゑ紙のごと燃えざりしゆゑ石と化(な)りし者よ

葛原妙子『朱靈』(1970)

 

 短歌は悲しみを盛る器だと言われる。

 ここでももちろん、石となった「者」は勝ち残って石となったのではない。石となって生き残ってしまったことの悲しみを感じるべきだ。(というか、自然に読めばそうなるが、念のため。)

 「茸」はタケと訓めば定型だが、キノコと訓んで「キノコノゴトクチザリシ」という左右に揺れるような音感を楽しみたい。キノコのとらえどころのないイメージがわき起こるだろう。

 じっと生えている茸も不気味だが、その生命力を失った姿はもっと得体の知れないものである。

 それに対して、「紙」は燃える。きっぱりとその身を消失してゆく紙。

 茸の朽ちる水系のイメージに対して火のイメージを配してある。 その二つを超える場所に置かれるのが「石」。

 難しいのは「者」の解釈だろう。

 人間だけとは言い切れない。かつて生命をもったもの、と理解しておく。

 時間をかけて死を迎える茸にも、一瞬のうちに物体の死を迎える紙にもなれなかった者。

 石というものはその恥辱にひたすら耐えているのだ。

 いつかそれぞれの石にも石の死が訪れることを、だれかに祈られながら。

 (「化」は正字。)