大松 達知


らつきようの玉かがやけるよろこびのごときを水に打たせてやりつ

河野愛子『魚文光』(1972)

 

 漬け込むためのラッキョウをごろごろと水洗いしている様子だろう。

 たしかにラッキョウの弾力と照りの美しさは、「かがやき」であり「よろこび」のように見える。

 ここではそれを「よろこびのごときを」と言ったところに少しの屈折を感じる。

 「よろこび」そのものの姿ではない。作者から見ると、いかにも喜んでいるようではあるが、実は内部に誰にも知り得ない悲しみや怒りが充満しているのかもしれない。

 素直に「よろこび」と言えなかったのは、作者の心理にそのようなものがあったからだろう。

 

 しかし、それはさておき「よろこびのごとき」と見える現実の表面をごろごろと洗う。

 水の飛沫が輝き、ラッキョウの生命力と一体になって「生(せい)」の喜びを体現している景色。

 「打たせてやりつ」と、少々もったいぶって言ったところにも作者の気持の屈折が見えなくもない。自分の手にすべてを委ねられているラッキョウの群れ。自分が上位に立ち、幸せを分けてやっているのだという物言いにも聞こえる。

 少々うがった解釈になったのは、他の歌の翳りを感じたからだ。