高島裕『嬬問ひ』(2002年)
人が人生も半ばと感じるのは、幾つぐらいの時だろうか。
三十代半ばから後半といったところか。
初句から、まなざしが大きな動作でもって上へ向けられ、声調もきっぱりと、そしてぴたりと定型に収めてうたわれている。
力強く「よろこびとせむ」の意志が伝わってくる。
「私祭」とはなんだろう。
私を祭る。
私を祝するようで、しかし何やらこわい雰囲気のある造語である。
祭りというものの、賑やかさとともに、なにか常軌を逸したところ、狂気も思われるのだ。
もう一度歌を読めば、「よろこびとせむ」、よろこびとしよう、であって、必ずしも今よろこんでいる訳ではない。
「私祭」の語を目にしてしまえば、いっそう「よろこびとせむ」に含まれたただならぬものを感じざるを得なくなってくる。
かんと晴れたしずかな夏空から、「私祭」への運びが見事で、なお若い意志の力を生に振り向けようとしつつ、それが澄んだままに落ち着かず、訳のわからぬエネルギーを秘めた、生きるおどろへなだれこんでいく感じが伝わってくる。
人生半ばならではの、生の混沌、そのかなしみが鋭く、重い。