おもむろに四肢(しし)をめぐりて悲しみは過ぎゆくらんと思ひつつ居し

佐藤佐太郎『帰潮』(1952)

 歌集のあとがきで佐太郎自身、

「私の歌には事件的具体といふものは無い。短歌はさういふものを必要としないからである。」

と述べている。

 

 どこまでが「事件的」であり、どこからが「事件的」でないのかは、もちろん作者の主観。だが、センセーショナル・ジャーナリスティックという方向からは大きく離れている。

 感じられるかどうかの、とてもわづかな感情の起伏や情景の変化。それを、的確にとらえ、定型のリズムに抑え込む。そして、そこからにじみ出る言葉の脂のようなものを楽しませてくれる。

 

 この歌でも、「悲しみ」がどんなものかわからない。

 自分の人生に根ざした大きな悲しみなのか、自分とは直接には関わりない小さな悲しみなのか。

 作者はその全てを包み込んで、純粋な〈悲しみ〉の姿を抽出し、その生態を描写するにとどめる。

 

 しづかにゆっくりと〈悲しみ〉は体全体をめぐる。速く抜け出て欲しいときも、(血流のようにではなく)じっくりと時間をかけて、時間に癒されたいとでも言うような速度で体をめぐる。

 そうして、〈悲しみ〉が十分に体に浸透してからようやく抜け出てゆく。

 「らん」は現在推量だから、悲しみを客観視してそれが抜けてゆくのをリアルタイムで耐えていたときを回想しているということになるだろう。

 定型ピタリと嵌め込まれ、リズムが良すぎるようなところからもかえって〈悲しみ〉の力を感じる一首である。

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