対岸も此岸もしげき蝉のこゑわれはこの世の橋わたりゆく

雨宮雅子『昼顔の譜』(2002)

 

 橋を渡る、というのは象徴的な行為である。

 一義的には、川の上にかかる橋を想像するだろう。つまり、現世から来世へ渡るというイメージが底流しているはず。

 それは日常的に橋を渡る人にとっても同じこと。

 どちらかが「こちら」(ホーム)で、どちらかが「あちら」(アウェイ)であるはず。橋を渡るとは、現在の安全な場から未来の危険の場へ自分の肉体を運ぶ行為である。

 危険があるかもしれないからこそ魅力的な行為であり、魅力的だからこそ現在を捨ててまでも渡ってゆくのである。

 

 しかし、この歌の場合、そうした通常の「橋」のイメージとは違う。

 現実の空間から抜けられない苦しさを歌っているのではないか。

 風景を圧するように鳴きしきる蝉。蝉の声が聞こえるところが現実だとすれば、対岸へ渡って行っても、現実から逃れたことにはならない。

 われわれは繰り返し繰り返し「この世の橋」を渡り続け、しかし、どこにも辿りつけない苦しさを持つ。

 

 そして、最後に渡るたったひとつの橋だけが「あの世へつづく橋」であるのだろう。

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