荻原裕幸『甘藍派宣言』(1990年)
時に羽根が無残に傷んだ蝶を見かけることがある。
どんなところで、どんなことに会ったのだろうと、思わず目をとめる。
が、この歌では、その「襤褸」の原因が、自分の少年時代の「虐待」につなげられている。
遠い時の彼方からやってきて、ボロボロの姿で、眼前にある蝶。
小さな生き物をいじめるのは、少年の特性でもあるが、ここに時をさかのぼって感じられているのは、この小動物苛めをひとつの象徴としつつ、自分でも明確に表しえないもののように思う。
哀れな蝶を思えば、苦さのようなものと思えるのだが、そこにとどまらない思い。
過ぎ去ってしまった、溌剌としたエネルギー、好奇心、欲望のわくままの行動、その末の残酷、その全てを振り返る時の、まぎれもなく失ってしまったものへの気持ち。
蝶によってほそぼそとつなげられた時間の奥には哀惜、さらにはなつかしさというものまでがあるのかもしれない。
・地下鉄に置き忘れたるサリンジャー再び出会ふことも無からう
ふりかえる心の様の、その時々の色合い。